小西行長とは
堺の商人の子として生まれた小西行長(こにしゆきなが)は戦国の謀略王こと宇喜多直家にその才能を認められて武士となった。。
その後、秀吉に仕え水軍を率いて活躍し、肥後南半国20万石を与えられたが、隣国の加藤清正との確執を深めてしまう。
また彼はキリシタン大名でもあった。豊臣秀吉に気に入られて頭脳派大名として出世した、小西行長について追っていく。
生い立ち
小西行長(こにしゆきなが)は永禄元年(1588年)堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれる。
父・隆佐は薬種商をしていたとされるが、近年の調査・研究では大坂・堺で活躍する貿易商の日比屋氏と婚姻関係を結び、九州と堺の海上輸送ルートとのコネがあったといわれ、熱心なキリシタンでもあった。
行長は18歳の時に備前国福岡の豪商・阿部善定の手代・源六の養子となるが、商売で訪れていた宇喜多直家にその才能が認められ、家臣として仕えることになる。
近年の調査では実は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と関係があって、秀吉が宇喜多直家の凋落のために行長を送り込んだという説が有力である。
宇喜多家では行長は御船組員として加わり武士となっている。
秀吉による三木城攻めで宇喜多直家は秀吉に降伏する。
行長は織田家の人質として出された直家の嫡男・秀家の付き添いとして秀吉に会った時にその才を認められ、父と共に羽柴家で仕えるようになる。
これも秀吉による策ではないかという説もある。
水軍大将
秀吉に仕えた行長は天正9年(1581年)には石田三成と共に堺政所になり、堺から瀬戸内海の船舶を監督する水軍大将「舟奉行」を任命され、水軍を率いることになる。
行長の家族はキリシタンであり、宣教師とのつながりが深く、商人とのパイプがあったために、キリシタンしか許されていなかった貿易ルートも確保できたのである。
行長本人も天正12年(1584年)キリシタン大名の高山右近の影響でキリシタンとなったとされるが、その以前から洗礼を受けていたという説もある。
秀吉は行長を気に入り、どんどん出世させていき天正13年(1585年)に摂津守として豊臣姓を名乗ることを許される。
同年、水軍を率いて紀州征伐に参戦し、この時には雑賀衆の抵抗を受けて敗戦してしまうが、太田城の水攻めでは武功を挙げて小豆島1万石を与えられている。
肥後南半分の大名
天正15年(1587年)九州征伐では兵糧や武器・弾薬の輸送などに活躍するなどの功績が認められ、天正16年(1588年)一揆制圧に失敗した佐々成政の改易に伴い、肥後国南半分約20万石の大名となる。
しかし、行長の居城普請に従わなかった天草五人衆が一揆を起こしてしまう。
キリシタンが多かった天草衆だけに同じキリシタンの行長は穏便な形での決着をしようとするが、隣国の清正が強硬に軍勢を差し向けて平定してしまった。
この時に隣国の領主・加藤清正との確執が生じてしまうのである。
天正15年(1587年)秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出し、領国ではキリシタンが多かったことから行長は宣教師たちを1度退去したように見せかけて、秀吉から隠してしまった。
秀吉を信用させた行長は、逆に領国に多くの宣教師を招くなどキリスト教の普及に努め、改易となった高山右近の家臣たちも取り立てている。
このように自分の生命線となるキリシタンとのつながりを秀吉に隠しながら、彼らを守るという手腕を見せる。
しかし、領国の境界線を巡って清正と何度もいざこざがあり、両者の確執は深まっていくこととなる。
朝鮮出兵
文禄の役では行長と清正の両名が先鋒となることを望んだが、秀吉は行長を先鋒として清正を2番手とした。
行長は6,000の兵を率いて漢城を陥落させて進軍するも、明が援軍を送ると膠着状態になったために石田三成らと共に和平交渉を進める。
実は行長は早くに投降していた朝鮮の武将に講和の用意があることを伝えて、そのことを書いた手紙を秀吉に送っていたのだ。
ところがそれを無視した清正が暴れまくり、行長が朝鮮国王にあてた手紙を託した武将を殺してしまう。
これで行長の信頼は無くなり、朝鮮国王は逃亡し、和平交渉への道が遠のいてしまう。
秀吉の条件は朝鮮半島の半分をよこせというもの。明の条件は日本の完全撤退であったが、戦況が不利になったために行長と石田三成は偽りの国書を二通作ろうと決める。
行長は明軍の将軍と共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとした。
この結果を受けて明の使者は秀吉に「明の臣下になれ」という内容の文書を持って来日する。
この内容を秀吉に知られないようにごまかせと使者に依頼した行長だが、使者はその内容を正しく秀吉に伝えてしまった。
秀吉はこれに激怒して交渉の首謀者の行長に死を命じるが、前田利家や淀殿の取りなしで行長の命は助かる。
その後、秀吉は2回目の朝鮮出兵(慶長の役)を決め、行長に不忠義を払拭させるほどの武功を挙げよと朝鮮に送り出した。
水軍を率いた行長は武功を挙げたが、秀吉死去との連絡を受けて帰国するように動く。
加藤清正との争い
この頃、清正とのいがみ合いはエスカレートしており、行長は清正の進路を朝鮮軍に事前に教え、清正を殺そうと画策している。ただし朝鮮軍はこの密告を逆に罠だと勘違いし、この目論見は失敗している。
そして清正も日本軍撤退の際に、行長を朝鮮半島に置き去りにして見殺しにしようと画策した。
行長は島津義弘の救援で、何とかその年の12月に帰国を果たしている。
清正ら武断派の武将と、三成・行長の文治派の対立は、一触即発状態となっていくのである。
関ヶ原の戦い
徳川家康は秀吉の死後、有力諸侯との姻戚関係を結び前田利家と対立し始めていたが、まもなく利家は亡くなってしまう。
利家が死に、抑えが亡くなったことで、石田三成を恨んでいた加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の七将が三成を襲撃しようとする。
それを知った三成は伏見城の屋敷へ籠城し七将はそれを包囲したが、家康が仲介に入り、三成は五奉行の職を辞して隠居することになる。また、不満の大きかった文禄・慶長の役の論功行賞は見直しとなった。
これによって家康が豊臣政権での全権を握り、清正らは家康についていくことになる。
慶長5年(1600年)6月、会津征伐では、行長は家康から上方への残留を命じられる。
7月になると石田三成が大谷吉継や毛利輝元と共に挙兵。行長もそれに従って西軍として参戦を決める。
この頃、行長は家康寄りであったが、朝鮮のことで三成との結びつきも強く、何と言っても清正との確執が大きく西軍についた。
9月15日、関ヶ原の戦いでは東軍の田中吉政や筒井定次と戦うが、小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れになると、行長軍も壊滅状態になり行長は伊吹山に逃走する。
途中、偶然出会った庄屋の林蔵主という者に匿われていたが行長は観念し、林に自分を捕縛して褒美をもらうように薦める。
行長はキリシタンだったので、自害は禁止されていたのだ。
林は悩んだ末に、行長を徳川家の家臣、村越直吉の陣へと引き渡した。
10月1日、京都市中引き回しの後に、三成や安国寺恵瓊と共に斬首された、享年46歳であった。
おわりに
小西行長は商人とのつながりやキリシタンとのつながりで、優れた海上技術と外交能力を身に付け、豊臣秀吉に認められて大出世を果たした。
秀吉の命に背いて敵と勝手に密約を結び、秀吉を騙して一度は死を覚悟したが、優れた外交能力で周囲の取りなしを得てお咎め無しとなる。
少しの不手際でも改易を余儀なくされた戦国時代を、巧みに生き抜く優れた能力を持った、謎多きキリシタン大名であった。
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