戦国最強軍団 赤備え
戦国時代、全身朱塗りの甲冑をまとった「赤備え(あかぞなえ)」という軍団があった。彼らは戦場でかなり目立つため他の部隊より勇ましく戦わねばならず、武芸に秀でた精鋭が集められた。
最初に赤備えを率いたのは武田信玄の家臣で「甲山の猛虎」と謳われた飯富虎昌(おぶとらまさ)とされている。
飯富の死後、赤備えは弟の山県昌景(やまがたまさかげ)が引継ぎ、「武田の赤備え」は武勇に優れた最強軍団としてその名を全国に知らしめた。
武田家滅亡後、旧武田領は徳川家康のものとなり、赤備えは徳川四天王の一人・井伊直政(いいなおまさ)が受け継いだ。
井伊の赤備えは「井伊の赤鬼」と呼ばれて恐れられ、数々の武功を挙げて赤備え最強伝説を継承した。
大坂冬の陣では、真田信繁(さなだのぶしげ・真田幸村)率いる赤備えが真田丸の戦いで徳川方に大打撃を与え、大坂夏の陣では真田軍は決死隊として徳川家康の首にあと一歩のところまで迫り、家康に自害を覚悟させるまでの強さを見せた。
今回は最強の甲冑軍団・赤備えを受け継いだ猛将たちについて詳しく解説する。
武田の赤備え 最強騎馬軍団
「赤備え」の源流と言われるのが、前述した武田二十四将の一人「飯富虎昌(おぶとらまさ)」である。
虎昌は信玄の父・武田信虎以来の武田家の重臣で、板垣信方・甘利虎泰と並ぶ宿老として数々の戦で武功を挙げ、信玄と共に信虎の追放にも加担した。その後、虎昌は武田家臣団筆頭として信玄を支え、手勢に朱色の甲冑を着用させた。
虎昌はそのままでは家督の継げない武家の次男・三男などを中心に、腕っぷしの強い者たちを集めて軍団を編成した。手柄を上げねば出世出来ないハングリー集団である虎昌の赤備えは、戦場で真っ先に突撃する精鋭部隊として名を馳せる。
虎昌の赤備え部隊は後ろには下がれず、もし下がれば味方から突き殺される。そうした切迫した中で鍛え抜かれた精強部隊であったという。
天文22年(1553年)虎昌の手勢800が守る内山城が長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の連合軍8,000という10倍の軍勢に囲まれたが、虎昌軍団は守り抜いた。永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いでは、虎昌は妻女山別働隊を大将として率いて勇名を轟かせ、虎昌率いる赤備え部隊は武田軍の象徴として他国から恐れられるようになっていった。
しかし永禄8年(1565年)虎昌は、信玄の嫡男・義信を担いで謀反を企んだとして切腹させられてしまった。
虎昌の死後、赤備えは虎昌の弟・山県昌景(やまがたまさかげ)を受け継いだ。(※甥説もあり)
武田四天王と称された昌景の戦いぶりは兄・虎昌に勝るとも劣らぬもので、三方ヶ原の戦いにおいては徳川家康の本陣に襲い掛かり馬印を倒し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。この戦いは家康の生涯最大の敗戦と言われ、家康はこの時の苦渋の表情を描かせた「しかみ像」という絵を手元に置いて、決して慢心しないようにしたという逸話もあるほどだ。
あまりにも強すぎた山県昌景の赤備えは全国的に名を馳せ、諸大名の勇猛な兵ですら赤備えをを見ただけで震え上がったという。
井伊の赤備え(井伊の赤鬼)
天正10年(1582年)織田信長による甲州征伐によって武田勝頼が自害し武田家は滅亡した。信長は旧武田領の配分を行ったが、6月2日に本能寺の変で横死。
その後、徳川・北条・上杉で旧武田領を巡る争い「天正壬午の乱」が勃発した。
この乱で甲斐と信濃の大部分は家康のものとなったが、北条との和睦に積極的に動き、重要な交渉をまとめたのが後の徳川四天王の一人・井伊直政(いいなおまさ)であった。
当時、若干22歳の若武者であった直政は、旧武田領の家臣たちの本領安堵を約束する取次役として奔走、その恩賞として駿河に4万石を与えられた。
武田の旧臣・74名と関東の従士・43名の計117名が直政の付属とされ、侍大将に出世した。
その時、かつて山県昌影が率いていた武田の最強騎馬軍団・赤備え部隊を家康から賜ったのである。
井伊の赤備え軍団のデビューは鮮烈で、天正12年(1584年)秀吉と家康・織田信雄連合軍が戦った「小牧・長久手の戦い」で、赤い甲冑を身にまとった直政は赤備え軍団の先頭に立って長槍で敵を圧倒した。その勇猛果敢な姿に「井伊の赤鬼」という異名がつき、全国の諸大名に恐れられた。
通常、大将とは陣の奥で指揮を執るものだが、直政は長槍を持って単身で敵に突撃した。井伊の赤備えは大将自らが功を狙って先陣を切るという恐ろしい部隊であり(※士気は当然高くなる)直政の代わりに奥で指揮を執ったのは井伊家の筆頭家老・木俣守勝であった。
井伊の赤備え軍団は小田原征伐でも猛威を振るい、直政は徳川家譜代として最高禄高となる12万石を得た。
慶長5年(1600年)天下分け目の「関ヶ原の戦い」では、当初福島正則が一番槍(先陣を切る)の予定だったが、直政は家康の四男・松平忠吉と共に抜け駆けして一番槍として突撃した。
赤備えで、しかも大将の印をつけて最前線で戦うのだから当然敵方のターゲットになりやすいが、直政はこの戦法で一度も負けなかったという。
ただし傷は絶えなかったようで、関ヶ原の戦いの「島津の退き口」では、島津軍の鉄砲により足に大怪我を負ってしまった。
しかしこれらの働きによって徳川四天王の中では最高の18万石を与えられ、徳川譜代筆頭となり、井伊彦根藩はのちに30万石を与えられ、足軽の一兵卒まで赤備えで統一されたという。
真田の赤備え
戦国武将の中でも一・二を争うほどの人気を誇るのが、真田信繁(幸村)である。
「大坂冬の陣・大坂夏の陣」による真田の赤備え部隊の活躍は、日本全国の武将たちから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と最大級の称賛を浴びた。
徳川軍に2度も勝利した父・真田昌幸は、関ヶ原の戦い後に蟄居となった九度山で、息子・信繁に「もう一度天下分け目の大きな戦が起きる」と予言し、家康の倒し方を伝授したという。
元々、真田軍の甲冑は黒甲冑であったが、信繁は大坂冬の陣を前に自軍の甲冑を赤で統一させ、何度も塗り直させたほど気を使って真紅の甲冑部隊を編成した。
大坂冬の陣では真田丸での攻防戦で徳川方へ大打撃を与え、和睦になると家康は真っ先にに真田丸を取り壊したという。
丸裸状態となった大坂夏の陣では、信繁は毛利勝永らと共に「狙うは家康の首一つ」と決死隊を編成して出撃。信繁は徳川方の大軍勢を突破し家康の陣に迫って本陣の馬印を倒し、家康に2度も自害を覚悟させたという。
信繁が大阪の陣でかぶった兜は、前面に真田の家紋「六文銭」と鹿の角が施された真紅の兜だったが、この兜は家康を倒そうと常に思っていた亡き父・昌幸から譲り受けたという。(※諸説あり)
昌幸の策士振りに家康は過去に2度も苦湯を飲まされていた。大坂の陣が始まる前に「真田が大坂城に入った」と知らせを受けた家康は、昌幸ではなく息子の信繁だと知ると胸を撫で下ろしたと伝えられているが、信繁には昌幸以上に追い詰められたのである。
家康の首にあと一歩のところまで迫りながら力尽きて散った真田赤備えと信繁の武勇は、後世に語り継がれる伝説となった。
その他の赤備え
豊臣恩顧の大名で、関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導いたとも言われる猛将・福島正則は、配下の中でも信頼する20騎の精鋭武者に「赤坊主(あかぼうず)」と呼ばれる朱塗の甲冑を着せていたという。
関東の雄・北条家には白・黒・赤・青・黄の五色の色備えがあり、猛将・北条綱高(ほうじょうつなたか)が赤備えであった。
同じ北条家には部隊ではないが、臼井城の攻防戦で朱色の甲冑を着て活躍した松田康郷(まつだやすさと)がおり、上杉謙信にその武勇を感嘆されている。
武田軍には山県昌影以外の部隊にも赤備えがおり、長篠の戦いで活躍した小幡信貞(おばたのぶさだ)や浅利信種(あさりのぶたね)も赤備え部隊を率いていた。
丹波の赤井直正(あかいなおまさ)や、黒田官兵衛(黒田如水)配下の黒田二十四騎の菅正利(かんまさとし)と井口吉次(いぐちよしつぐ)は朱色の甲冑と長槍を許されたという。
いずれも名だたる武将や猛将たちが赤備えを許されていた。
徳川幕府では将軍が外出する際に護衛を担当した「小十人組(こじゅうにんぐみ)」の旗本が、幕府から朱色の甲冑を貸与されていた。
おわりに
徳川家康が本陣の馬印を倒されたのは生涯に2回だけである。1度目は山県昌影率いる赤備え部隊で、2度目は真田信繁(幸村)率いる赤備え部隊であり、家康に死を覚悟させたのは2度とも赤備え部隊であった。
赤備えは鉄砲や弓などで狙われやすいが敢えてそれを着て戦う精強部隊であり、武勇の誉れの象徴として今も語り継がれている。
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