穴山梅雪とは
甲斐の虎・武田信玄が率いた家臣団は「風林火山」の旗のもと、戦国最強と謳われていた。
その中核を担っていたのが「武田二十四将」である。
その中でも高い地位にいたのが今回紹介する、穴山信君(あなやまのぶただ)、後の穴山梅雪(あなやまばいせつ)だ。
穴山梅雪は主君・信玄から厚い信頼を得て重用され、軍事や外交で手腕を発揮した武将だった。
それにもかかわらず敵方・徳川家康と通じ武田家を裏切ったのである。それは一体なぜだったのだろうか?
実は、梅雪の裏切りがなければ、家康の天下もなかったかもしれないと言われている。
なぜ穴山梅雪は武田勝頼を裏切って徳川家康についたのか?
前編では梅雪の前半生と裏切りに至るまでの武田軍での経緯、後編では梅雪の裏切りとその理由、梅雪の死の真相について掘り下げていきたい。
出自
天文10年(1541年)甲斐の国の当主・武田信虎が息子・信玄(※晴信)に追放され、信玄が新たな当主となった年に、穴山梅雪は甲州・河内領で穴山信友の嫡男として生まれた。
幼名は「勝千代」で、その後「信君」と名乗り、「梅雪」は後に出家した時に号した名であるが、ここでは「梅雪または穴山梅雪」と記させていただく。
武田家家臣団は親族・姻戚関係を結んだ者から成る御親類衆と、服属した他国の国衆である先方衆、古くから武田家に仕える譜代・家老衆で構成されていた。
信玄の時代、その家臣団が大きく変わることになる。
父を追放して家督を継いだ信玄には抵抗する者も多く、頼みとなるべき一門衆に人材が乏しかったために、信玄は能力を重視し家格の低い者でも抜擢して登用した。
その結果生まれたのが、戦国最強と謳われた武田軍団だった。
その中で中核を担ったのが武田二十四将である。
この最強軍団の中でも、梅雪は一目置かれる存在であった。
実は、穴山家は甲斐源氏一門の名家で、武田家の家臣ではあるが従属・服属していた訳ではなかった。河内領の自治領主であり、軍事力を提供する代わりに武田家の保護を受けるという間柄だったのである。
また、梅雪と信玄には強い血の結びつきがあった。
梅雪の父・穴山信友は甲斐南部を支配する下山城主で、梅雪の母は武田信虎の次女で信玄の姉・南松院、つまり梅雪は信玄の甥にあたるのだ。
永禄元年(1558年)梅雪は穴山家7代当主となると信玄の次女を娶った。こうして武田家とのつながりはより強固なものになり、梅雪は御親類衆の筆頭格という立場になった。
梅雪の人柄は「文藝に秀で風雅を解し外交に巧みで武田の諸将・領民からの人望を集めていた」と伝わっている。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれた。
跡を継いだ今川氏真は義元ほど力がなく、武田・徳川による今川領を巡る争いが活発化した。
そこで活躍したのが梅雪であった。
外交のエキスパート
永禄11年(1568年)12月、信玄は駿河攻めを開始し、大軍を率いて南下した。
この時、28歳になっていた梅雪は、今川家中の調略を担った。
その巧みな外交交渉によって今川方からの寝返りが相次ぎ、今川氏真は抵抗すらできないまま駿河を脱出したのである。
信玄はこの駿河侵攻の下準備として三河の徳川家康と同盟を結んだが、その交渉でも梅雪は中心的な役割を担っていたとされている。
穴山家は甲斐国の南側を領しており、今川家から塩や海産物を取引していたことで梅雪の外交力は磨かれていたのである。
こうして武田家の外交エキスパートとなった梅雪だったが、その反面戦場での華々しい活躍はなかった。
梅雪は戦の時には、本陣を固めて主君・信玄を守ることが使命であったためである。
それでも激戦で知られる「第四次川中島の戦い」では、本陣に攻めてきた上杉勢を追い崩す活躍をするなど、梅雪は武将としても優秀だった。
永禄12年(1569年)信玄と家康は、今川氏を滅ぼすと領国を割譲した。
駿河を手に入れた信玄は、甲斐・信濃・駿河の3国と上野・飛騨にまで勢力を伸ばす大大名となった。
遠江を手に入れた家康は、三河との2国を支配する戦国大名となり、浜松城を築城して本拠とした。
しかし、武田二十四将の1人・秋山虎繁が遠江に侵攻するなど、武田と徳川の間には亀裂が生じ、同盟は崩壊してしまう。
一方で、家康は織田信長とも同盟を結んでいたが、信長が将軍・足利義昭の威光を盾に畿内に勢力を広げると、信玄にとっても信長は見過ごすことができない存在となっていった。
西上作戦
元亀3年(1572年)とうとう信玄は信長を打ち砕くべく、2万5,000の軍勢で西上作戦を開始し、梅雪もこの戦いに従軍した。
武田軍が最初に攻めたのは、信長と同盟を結んでいた家康だった。
徳川方の城を次々と落とし、家康の本拠・浜松城に迫ったのである。
家康が浜松城に籠城すると見るや、信玄はあえて浜松城を素通りし、家康を引っ張り出し、得意の野戦へと誘った。
そして家康は、まんまと信玄の罠にはまったのである。
こうして「三方ヶ原の戦い」が勃発し、信玄の罠にはまった家康軍はわずか2時間で大敗を喫し、命からがら浜松城に逃げ帰った。
この夜に徳川軍の中で一矢報いようとする鉄砲隊が、武田軍がいた犀ヶ崖を強襲した。
武田軍は大慌てとなったが、この時に梅雪は鉄砲隊を率いて、徳川軍の鉄砲隊を追い払ったという。
騎馬隊が有名な武田軍だったが、梅雪は早くから鉄砲の威力の優位性に着目し、家臣に訓練をさせていたという。
しかし、徳川軍を蹴散らして西上作戦を続ける武田軍に思いがけない事態が起こる。
信玄が病に倒れたのである。
やむなく武田軍は甲斐へと引き返すことになったが、信玄は回復することなく、そのままこの世を去ってしまった。
正式な後継者ではなかった 武田勝頼
信玄という偉大なカリスマを失った武田家だったが、その家督を継いだのは諏訪家出身の母を持つ信玄の四男・武田勝頼だった。
信玄の後継者と目されていた嫡男・義信が謀反の疑いで廃嫡されてしまい、次男・信親は盲目で、三男・信之は早世していたため、四男・勝頼が家督を継ぐことになったのである。
しかし勝頼は正式な後継者ではなく、信玄は勝頼の子でわずか7歳であった信勝を後継者に指名した。つまり勝頼は、信勝が16歳で元服するまでのつなぎ役で、それまでの後見人であった。
そして梅雪も、勝頼のことを本当の後継者として見ていなかったという。
「当主ではなく後見人」
これが家臣たちの勝頼に対する忠誠心を曇らせることになり、武田家は一枚岩ではなくなっていくのである。
「家臣たちに自分を認めさせるには戦って勝つしかない」と考えた勝頼は、各地を転戦し、信玄が落とせなかった城を落とすなど勢力を拡大していった。
そしてついに、武田家崩壊への大きなきっかけとなる「長篠の戦い」が起こるのである。
鳥居強右衛門
信玄の死は信長の天下取りを加速させ、同盟者の家康もその勢いを増し、武田家は領国を次々と奪われていった。
天正3年(1575年)4月、勝頼は織田・徳川連合軍と雌雄を決するために、1万5,000の兵を率いて出陣した。
そこには梅雪の姿もあったが、実は梅雪はこの戦いには反対していたという。
この時のはっきりとした経緯は不明だが、梅雪は「織田軍が鉄砲を大量に揃えている」という情報を掴んでおり、騎馬軍団を主力とする武田軍では勝算が薄いと判断していたという。
もし梅雪の意見を受け入れていれば、歴史は大きく変わっていたのかもしれない。
武田軍は5月上旬に徳川方の家康の長女・亀姫を娶った奥平信昌が守る長篠城を包囲したが、奥平勢は家康の援軍がくると信じ、武田軍の猛攻に耐えて籠城を続けていた。
5月16日、近くの山から狼煙が上り、これを穴山隊が発見した。
梅雪は「この狼煙は、長篠城に徳川方の援軍がくる合図だ」と察し、狼煙を上げた者を捕らえるように指示し、捕らえることに成功した。
その者は農民に化けていた奥平信昌の家臣・鳥居強右衛門(とりい すねえもん)であった。
実は鳥居は、捕まる前に家康がいた岡崎城まで走って救援を乞うていた。
その時、岡崎城には救援に駆け付けた信長の姿もあった。
そして家康は鳥居に「必ず助けに参ると伝えよ」と言った。
そしてその言葉通り、織田・徳川連合軍は長篠城を救うために出陣したのであった。
梅雪は捕らえた鳥居を、勝頼の前に引き出した。
すると勝頼は「長篠城に援軍は来ないと伝えよ!そうすれば思いのままの恩賞をとらす」と、鳥居に言いつけた。
そして鳥居は磔にされた状態で、長篠城の仲間から見える場所まで引き出されたのである。
しかし鳥居は勝頼の言いつけを破って、長篠城に向かって「援軍は必ずくる、あと3日待たれい!」と大きく叫んだ。
その命懸けの叫びを聞いた梅雪は「武田家の命運は、これで尽きたかもしれぬ」と思ったという。
その後、鳥居は処されたが、奥平軍はそれに報いるように武田軍の猛攻に耐え抜き、籠城を続けた。
そして約束通り、織田・徳川連合軍が到着し、設楽原に陣を張ったのである。
その数3万、鉄砲の数は3,000丁だったとも言われている。
織田・徳川連合軍は馬防柵を設けて鉄砲隊を配置し、武田軍を迎え撃つ準備を固めた。
武田軍は本隊を設楽原に差し向けて対峙し、ついに5月21日「長篠・設楽原の戦い」が始まったのである。
長篠の戦いで卑怯者と非難される
武田の騎馬隊は織田軍の柵に強引に突っ込むも、絶え間なく撃ち込まれる鉄砲の前に死傷者が続出した。
武田軍は総崩れとなり「武田二十四将」と呼ばれた精鋭のおよそ半分が、この戦で亡くなったという。
「甲陽軍艦」によると、「穴山衆は戦闘を交えることなく退いた」とある。梅雪は勝頼本陣の右翼に布陣していたが、戦うことなく撤退したという。
3,000丁の信長の鉄砲隊が到着したことを知った梅雪は、鉄砲の威力を誰よりも知るからこそ武田の敗北を悟り、無駄に兵を失う前に撤退を決めたと考えられる。
梅雪は、戦況を冷静に見極めて負け戦をしない武将であった。
しかし、他の武将たちからは「臆病者・卑怯者・未練者」と非難されたという。
こうして戦場から無事に戻った梅雪だったが、この後、命の危険に晒されることになる。
それは、高坂昌信(高坂弾正)が当主・勝頼に、いち早く逃げ帰った梅雪の切腹を求めたからだ。
しかし、勝頼は「今、梅雪を失う訳にはいかぬ」と梅雪をかばったという。
勝頼は5歳ほど年上の梅雪を、ある意味兄のように慕っていた。
また、武田軍はこの戦いで多くの重臣を失っており、御親類一族衆筆頭格の梅雪まで失うことはできなかった。
梅雪は、この戦いで亡くなった山県昌景の後任として江尻城主となり、本領の河内領と共に駿河西部を支配下に置く武田家内の一大勢力となった。
後編では梅雪の裏切りとその理由、梅雪の死の真相について解説する。
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