昔から「武士は七たび浪人してようやく一人前」などと言われるように、天下泰平の江戸時代はともかく、戦国乱世において浪人することは珍しくありませんでした。
とは言っても、一つの家に何度も出入りする事例はそう多くなかったはずです。普通は一度出たらそれっきり、あるいは故あって出戻ったなら、もう出て行こうとは思わないでしょう。
それが三度も出て行った強者がおりました。彼の名は伊奈忠家(いな ただいえ)。徳川家康に仕えた譜代の家臣ですが、果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
一度目の出奔「三河一向一揆」
伊奈忠家は享禄元年(1528年)、三河小島城(愛知県西尾市)城主・伊奈忠基の11男として誕生しました。
通称は五兵衛(ごへゑ)、元服してはじめ伊奈熊蔵易定(くまぞうやすさだ)と名乗っていましたが、後に家康から康の字を賜わって伊奈五兵衛康定と名乗ります。兄弟で唯一ですから、よほど気に入られていたのではないでしょうか。
末子ながら家督を譲られ、小島城主として家康に奉公した康定。しかし永禄6年(1563年)に勃発した一向一揆では一揆側に寝返ってしまいました。
ちなみに、兄弟11人中一向一揆に寝返った者は4人(三男の伊奈貞平、四男の伊奈貞正、五男の伊奈貞吉そして康定)。次男の伊奈貞次は一揆勢との戦いで討死したと見られています。
まさに骨肉の争いが繰り広げられた末、康定は三河より出奔。この時、名前を伊奈仁兵衛忠家と改めました。これが一度目の出奔です。
二度目の出奔「築山殿事件」
それから何やかんやあって、12年の歳月が流れました。時は天正3年(1575年)、我らが神の君は甲斐の武田勝頼と激しい抗争を繰り広げています。
「今ならきっと、一人でも多く戦力を求めているはず……でも、真っ向から頼むより、武功の手土産を持参した方がよかろう!」
という訳で忠家は、共に放浪していた嫡男の伊奈忠次と二人で松平信康(家康嫡男)の陣営に潜入しました。
「おい、そなた五兵衛ではないか。今さらどの面下げて……」
「まぁまぁ、此度は再仕官がかかっているから、見逃してくれよ」
かくして5月21日の長篠合戦でみごと武功を立て、信康の家臣として召し抱えられます。
さぁ、今度こそ生涯にわたって忠義を尽くそう……と忠家が思ったかどうか、4年後の天正7年(1579年)。家康の正室である築山殿と信康が、武田と内通していた容疑によって粛清されてしまいました(築山殿事件)。
忠家・忠次父子も連座させられたのか、あるいはそれから逃れようとしたのか、再び徳川家を出奔することになります。
家康の「神君伊賀越え」を助ける
徳川家を離れた忠家は、流れ流れて堺にいた五兄の伊奈貞吉(外記助)を頼りました。三河一向一揆で出奔して以来、一向門徒として各地を転戦していたそうです。
「数之助(四兄・伊奈貞正)兄者は摂津の木津城(大阪府大阪市)で討死なされた」
「……左様にございましたか」
身を隠しながら三人で暮らしていましたが、天正10年(1582年)に又しても転機が訪れました。
ちょうど家康が堺へ遊びにきていた最中、京都の本能寺で織田信長が討たれたというのです(本能寺の変)。
異郷の地に孤立し、わずかな手勢しか連れていなかった家康が、本国まで帰り着くのは至難の業。そこで忠家・忠次と貞吉は家康に道案内を申し出て、後世に伝わる「神君伊賀越え」を助けたのでした。
「……まぁ、世話になったな。また当家に仕えるか?」
「「御意!」」
かくして三度目の仕官を果たした忠家と忠次。これが三度目の正直となればいいのですが……。
三度目は家康の命で
その後、天正12年(1584年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)と争った小牧長久手の合戦では井伊直政の部隊に配属され、首級を上げた忠家。
今度という今度こそ、徳川家への忠義に生涯をまっとうするのだ……と思ったかどうだか、今度は家康の命によって織田信雄(信長遺児)の下へ派遣されます。
秀吉に篭絡されて心もとない信雄の監視役として送り込まれたか、あるいは別に要らなかったから厄介払いされたのか……どっちかは判りません。
今度は忠家一人で織田家へ赴きました。忠次は家康の側近として徳川家に残り、やがて頭角を現していくことになります。
このまま離れ離れかと思いきや、天正18年(1590年)に信雄が秀吉の逆鱗に触れて流罪に処されると、忠家は忠次の下へ舞い戻ってきました。
当時すでに63歳。流石にもうこの辺りで隠居しても、罰は当たらないはずです。息子の下で悠々自適に17年間の命を永らえ、慶長12年(1607年)4月1日、80歳の生涯に幕を下ろしたということです。
終わりに
●忠家
五兵衛 今の呈譜に、初め熊蔵易定後五兵衛康定に作り、御勘気蒙るの間、假に仁兵衛忠家と称すといふ。伊奈市兵衛忠基が十一男、母は某氏。
東照宮につかへたてまつり、小島の城主たり、永禄六年一向専修の門徒そむきたてまつりしとき、忠家これに與せし事により御勘気を蒙る。天正三年五月長篠合戦のとき竊に岡崎三郎信康君の御陣にまいりて軍功を勵す。信康事あるの後忠次とおなじく和泉国堺に赴き、兄外記助貞吉が許にあり。十二年四月長久手合戦のときは井伊直政が備にありて首級を得たり。其のち織田信雄に属し、信雄配流の後は男忠次が許にあり。慶長十二年四月朔日死す。年八十。法名浄香。武蔵国足立郡鴻巣の勝願寺に葬る。
●忠次
……天正十年六月東照宮彼地を渡御のとき小栗大吉某に就て請たてまつり、御供に列して三河国に来り、これより大六某が与力となり……
※『寛政重脩諸家譜』巻第九百三十一 藤原氏(支流)伊奈
伊奈忠家・略年表
享禄元年(1528年) | 小島城主・伊奈忠基の11男として誕生(1歳) |
天文19年(1550年) | 長男の伊奈忠次が誕生(23歳) |
永禄4年(1561年) | 長兄・伊奈貞政が吉良義昭との合戦で討死(34歳) |
永禄6年(1563年) | 三河一向一揆で家康に背き、出奔する(36歳) |
※次兄の伊奈貞次が一揆鎮圧の中で討死する | |
※三兄の伊奈貞平と四兄の伊奈貞正も出奔する | |
元亀元年(1570年) | 父・忠基が姉川合戦で討死(43歳) |
天正3年(1575年) | 長篠合戦のどさくさで二度目の仕官、松平信康の陣にもぐり込んで武功を立てる(48歳) |
天正7年(1579年) | 築山殿事件で信康が自害、再び出奔して堺へ(52歳) |
※姉(仁木助左衛門妻)が築山殿に殉じて入水自殺を遂げる | |
※堺に滞在していた五兄・伊奈外記助貞吉の世話になる | |
天正10年(1582年) | 家康の伊賀越えを助けて三度目の仕官(55歳) |
天正12年(1584年) | 小牧長久手の合戦で井伊直政の部隊に属し、首級を上げる(57歳) |
時期不明(戦後まもなくか)織田信雄の配下につけられる(忠次は徳川家に留まる) | |
天正18年(1590年) | 信雄が追放されると、忠次の下で世話になる(63歳) |
慶長12年(1607年) | 80歳で亡くなる |
伊奈忠家の兄姉たち
長男・伊奈貞政(図書)……永禄4年(1561年)吉良義昭との合戦で討死
次男・伊奈貞次(左衛門)……永禄6年(1563年)討死。一向一揆?
長女・仁木助左衛門妻……天正7年(1579年)築山殿事件で殉死する
三男・伊奈貞平(牛右衛門)……永禄6年(1563年)一向一揆に与して出奔
四男・伊奈貞正(数之助)……天正4年(1576年)一向一揆に与し摂津国木津城で討死
五男・伊奈貞吉(外記助)……貞正と木津城に籠もり、落城後堺へ逃れ、三河で閑居
六男・伊奈貞国(熊之助)
七男・伊奈忠貞(熊蔵。はじめ吉次)
八男・伊奈貞光(五助)……掛川合戦で討死
九男・伊奈康宿(市左衛門)……関ヶ原に軍功。没年不詳
十男・伊奈貞政(半七郎)
十一男・伊奈忠家
※『寛政重脩諸家譜』巻第九百三十一 藤原氏(支流)伊奈
※伊奈貞政が長男と十男の二人いますが、恐らく通称(長男は図書、十男は半七郎)で呼び分けたのでしょう。また、十男は長男の討死後に生まれたものと考えられます。
……以上、徳川家康に仕えた伊奈忠家の生涯をたどってきました。3度離れて4度舞い戻るというのは、切っても切れない腐れ縁だったということでしょうか。
NHK大河ドラマ「どうする家康」には息子の伊奈忠次(演:なだぎ武)が登場。果たして彼がどんな活躍を魅せてくれるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国立国会図書館デジタルコレクション
この記事へのコメントはありません。