平塚為広とは
平塚為広(ひらつか ためひろ)とは、豊臣秀吉に仕えた武将である。
関ヶ原の戦いでは盟友・大谷吉継の陣に属して前備えを任せられ、裏切った小早川秀秋軍や脇坂安治軍相手に奮戦するも、東軍の部隊にも囲まれて討死にした。
今回は、関ヶ原に散った信義に厚い怪力武将!平塚為広について解説する。
出自
平塚為広の前半生は謎で不明な点が多いが、平塚氏は桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族であるとされ、6代目が箱根の山賊を退治した功績によって武蔵国平塚郷を賜り、それ以来平塚姓を名乗るようになったという。
三浦氏と言えば、鎌倉殿の13人の1人・三浦義澄が有名である。
為広の3代前から濃州不破郡(現在の岐阜県不破郡)に住むようになったという説があるが、三浦氏の末裔である平塚為広が、なぜ美濃に居住することになったのかは不明である。
為広の父の名は三郎入道無心だという。
岐阜県不破郡は、現在の関ケ原町と垂井町を指す。
秀吉に仕える
「黒田家譜」によると、天正5年(1577年)秀吉が信長の家臣だった頃、為広は秀吉を怒らせて浪人になり関東に下っていたという。怒らせた理由は不明である。
秀吉が播磨国佐用城の福原氏を攻めた際に、平塚藤蔵という者が黒田孝高(官兵衛)に陣借りをして城攻めに加わり、城から落ち延びようとした福原方の武将・福原助就を討ち取る手柄を立てて、再び秀吉に仕えたという話がある。
この平塚藤蔵が為広だという。
大きな武功を挙げて秀吉のもとに再び仕えた為広は、秀吉の黄母衣衆(きほろしゅう)となった。
信長の赤母衣衆や黒母衣衆は精鋭部隊としてよく知られている。彼らは信長直属の使番として護衛や伝達の役割を担った。
鉄砲や弓が飛び交う中で走り回るので、まさに命がけの部隊であった。母衣をつけるのは選ばれた者だけに許された特権で、秀吉配下の黄母衣衆は名誉ある役職であった。
為広は小牧・長久手の戦いや小田原征伐にも従軍し、朝鮮出兵では名護屋城を守っている。
秀吉の醍醐の花見では、信長の忘れ形見である秀吉の側室・三の丸殿の身辺警護を任されている。
主君・秀吉が亡くなった後は、為広は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600年)美濃垂井に1万2,000石の所領を与えられて垂井城主となった。
石田三成を諫言するも
秀吉の死後、石田三成ら文治派と、加藤清正や福島正則ら武断派の対立が激化し、仲裁役であった前田利家が亡くなると、武断派による石田三成襲撃事件が起きた。
徳川家康が仲裁に入ったことで事態は収束したが、この事件で三成は居城・佐和山城に蟄居となり、政治の第一線から退かざるを得なくなった。
しかし、五大老の筆頭でありながら秀吉が決めた大名同士の婚姻を破るなど、あからさまに天下を狙う家康に対して、三成は密かに決戦を目論んでいた。
その後、家康は諸大名を率いて上杉討伐に向かった。為広の盟友・大谷吉継もその陣に加わろうと関東へ向かっていたが、途中、為広のいた垂井城に立ち寄った。
この頃、吉継は家康の実力を認めて「次の天下人だ」として近づいており、家康も吉継の実力を認めていた間柄であった。
ところが、垂井城に三成からの使者が来た。そして吉継と為広の2人は三成の佐和山城に出向いたのである。
三成が2人に打ち明けたのは「家康討伐計画」であった。
2人は驚いたが、親友である三成の頼みとはいえ、吉継も為広も首を縦には振らなかった。
大谷吉継は、亡くなった秀吉から「100万の兵を与えて指揮させてみたいものだ」と言われたほどの名将で、平塚為広も怪力で知られた歴戦の勇士であった。
しかし「自分たちが三成に味方したとしても、どう考えても家康には勝てない」と2人は思った。
物理的な石高や兵力の差も大きく、何と言っても三成にはリーダーとして必要な人望が無かったからだ。
2人は三成に対して「武断派から襲撃された三成が、幾ら豊臣家のためと旗を振っても誰も付いてはこない。これは指揮官として致命的だ。勝算の無い戦いになる」と、本音で諫言したのである。
吉継と為広の2人は、なんとか三成の挙兵を諦めさせようとしたが、三成も意志が固く、2人の説得に応じようとしなかった。
話し合いは平行線となり、とりあえず2人は垂井城に戻った。
しかし吉継は、長年に渡って培った友情から三成の頼みを断ることはできなかった。
吉継は、迷いに迷った末に為広に心を打ち明け、再び佐和山城を訪ね、三成に賛同の意志を伝えたのである。
例え「負け戦」と分かっていても、親友の三成を見殺しにはできなかったのだ。
そして為広も、盟友の吉継と袂を分かつことはできなかった。
ベストを尽くす
一旦心を決めた以上、もう後には引けなかった。
そこでまずは、家康討伐軍の総大将を誰にするのか決めることになった。
諸将による相談の結果、総大将には毛利輝元を擁立した。
輝元は毛利元就の嫡孫で五大老の1人である。家康の対抗馬とするに相応しい人物だった。
7月17日には、前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行が「内府ちかひの条々」を諸大名に送付した。
これは秀吉亡き後、家康が犯した罪状十三か条を書き連ね、秀吉の遺児・秀頼を守ることを名目として、味方の兵を募ろうとしたのである。
為広と吉継は常に行動を共にし、7月19日には総大将・毛利輝元が大坂城に入城した。
また、この日から徳川家家臣の鳥居元忠が守る伏見城への攻撃が開始された。関ヶ原の戦いの前哨戦である。
為広と吉継もこれに参戦し、8月1日には伏見城を落城させている。
一方、家康の元にも「三成挙兵」の知らせが続々と入っていた。
家康は、上杉討伐軍に参加していた諸将らと小山にて徳川直属軍を取りまとめ、軍議や諸準備等を経てようやく江戸を出発し、先に出発していた諸将らと合流し、9月14日に大垣の赤坂に到着した。
関ヶ原の戦い
杭瀬川の戦いを経て、翌日(9月15日)未明には東西両軍が関ヶ原に集結し、濃い霧が立ち込める中、ついに戦いの火ぶたが切られた。
石田三成率いる西軍 vs 徳川家康率いる東軍の、天下分け目の戦いである。
この日の勝敗を分けたのは、絶好の場所である松尾山に布陣していた西軍の小早川秀秋の寝返りであった。
実は秀秋は、以前から「西軍を裏切るのではないか」との噂があり、為広と吉継は事前にこの情報を察知していたという説がある。
秀秋は北政所の甥で、伏見城の戦いには西軍として参戦したが、その後、1人で鷹狩りに明け暮れ、決戦の前日に突如1万5,000もの大軍を率いて松尾山に陣を張った。
しかも、先に松尾山にいた元大垣城主の伊藤盛正を追い出しての布陣だった。
この行動を怪しんだ吉継は、大谷隊の前備えを任せていた為広に「秀秋の動向を探るように」と指示した。
「秀秋が裏切る気配があれば討ち果たすように」とも伝えていたが、事前に秀秋に察知されたため、為広は秀秋を暗殺することができなかった。
もし為広が秀秋の暗殺に成功していたら、この戦いの勝敗の行方は違っていたのかもしれない。
これは余談だが、家康が秀秋を促すために鉄砲(大砲)を打ち込んだという「問い鉄砲」の話は事実ではないというのが、最近の調査・研究で明らかになってきている。
実は、家康の後方の南宮山に陣取っていた吉川広家が、先に東軍に寝返っていた。
先陣の吉川広家の後ろには毛利秀元・長曾我部守親・安国寺恵瓊・長束正家らの部隊がいたが、先陣が動かないので釘付けにされていた。
吉川広家の寝返りによって後方からの心配が無くなったことで、徳川本隊は前に動き出した。
それまで形勢を見ていた秀秋は、東軍有利と判断して裏切ったのである。
今生の別れ
為広が陣を張った場所は「藤川台」と呼ばれるところで、東軍の最前線に相対する場所であった。
いざとなれば松尾山の小早川隊にも対応できる陣形を取っており、背後の大谷隊の盾になっていたのだ。
大谷吉継はこの時、重い病を患っており、かなり無理をしての参戦だった。
常人ならば戦場に出るのも難しい状態だったとも言われ、それでも輿に乗って陣頭指揮を執ったと伝わっている。
いざ戦が始まると、東軍の藤堂高虎隊と京極高知隊が西軍の最前線にいた平塚隊に討ちかかり、織田有楽斎の部隊が福島正則隊の背後から西に出て、藤堂隊と共に平塚隊を攻撃した。
為広は病気の重い吉継に代わって、自分の部隊と吉継の部隊の指揮を執り、平塚・大谷隊は僅かな兵力で善戦した。
ところが小早川隊が裏切ると、これに呼応して西軍の脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の部隊も裏切って平塚・大谷隊を攻撃したのである。
平塚・大谷隊は、すでに藤堂・京極隊とも戦っており大激戦となった。
合戦の最中、為広は重傷を負いながらも、討ち取った首に
「名のために 捨つる命は 惜しからじ 終(つい)留まらぬ浮世と思へば」
という辞世の歌を付けて、吉継に送ったという。
すると吉継も
「契りあらば 六つの巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
という返歌を書き、これを使者に持たせた。
しかし、この返歌が為広に届いたのかどうかは残念ながら分からない。
ちょうどその頃、激戦の中で疲労困憊していた為広は、討死していたからである。
為広と吉継は、ただ軍事に優れていただけの武将ではなかったようで「激戦の中でも歌を詠み合う」という一風変わった一面が、盟友となった要因なのかもしれない。
娘の逸話
怪力で知られた為広は、大薙刀の使い手であった。
現在、薙刀は女性の武術とされることが多いが、元々は戦場で使用される武器であった。
戦国時代は薙刀よりも槍が多く使われるようになっていたが、為広は大薙刀を使い、一振りすれば近くにいた人間は吹っ飛んだという。
だが、最期は愛用の大薙刀の柄が折れて、討ち取られたとされている。
為広の弟・久賀(ひさよし)も怪力として知られたが、彼は生け捕られて家康の前に引き出された後に放免され、大坂の陣では豊臣方として戦ったとされているが詳細は不明である。久賀の系統は後に紀州藩に仕えたという。
為広には娘がいた。「明良洪範」にはこんなエピソードが載っている。
「父・為広が西軍の武将として戦死するや、娘はいち早く京都の市中に忍び込み子どもと共に住んでいた。京都も探索が厳しく、遂に京都所司代の役人に見つかってしまい捕らえに来た」
彼女は堂々と対応し「女の儀故何事も辨(わきま)へ申さず候へども御用とあれば罷出申さん。夫に付身仕候へば少々の間御待下さるべし」と言って、役人(与力や同心)を待たせている間に、5歳と3歳の子どもを乳母に預けて裏口から逃がした。
そして、彼女は父・為広の四尺五寸の八角棒を隠し持って駕籠に近づくや、父に劣らぬ怪力で与力や同心らを次々と打ち倒し、与力の馬に飛び乗ってどこかに逃げたという。
娘も父・為広同様に怪力だったのである。
この怪力娘と子ども達は、津藩の藤堂家に身を寄せて生涯を閉じたと伝わっている。
関ヶ原では敵同士だったが、為広の勇猛さはよく知られていただけに、藤堂家は娘親子を匿ったのかもしれない。
おわりに
雑誌「青鞜」を創刊し、明治から昭和にかけて活躍した女性解放運動の活動家・平塚らいてうは、平塚為広の子孫だという。
関ヶ原の戦いから340年後の昭和15年(1940年)9月15日に、らいてうの父・平塚定二郎が、為広が討死にした藤川台の地に「平塚為広の墓碑」を建立している。
参考 : 「黒田家譜」他
おひさしぶりです。大河ドラマなどで大谷吉継の他に三成に「お前は人望がない」と言った誰かがよく出ていたのが、今回の平塚為広だったのですね。何かあの人は誰だろう?という疑問がこの記事で晴れました。
ありがとう、草の実堂さんとrapportsさん。胸のつかえがとれました。