梅丸楽劇団で人気スターとなった福来スズ子は、あこがれの人、松永からライバル会社への移籍を持ちかけられます。
スズ子のモデル・笠置シヅ子も、松竹から東宝への移籍を考えたことがありました。
今回は、大騒動へと発展したシヅ子の移籍問題について、史実をもとに解説します。
『ラッパと娘』で「スイングの女王」となり大活躍の笠置シヅ子
松竹楽劇団の旗揚公演から1年後の1939年7月、笠置シヅ子は帝劇での公演「グリーン・シャドウ」に出演し『ラッパと娘』を披露します。
『ラッパと娘』は、1937年制作の音楽映画『画家とモデル』の1シーンをヒントに、服部良一が作詞作曲しました。
映画では、サッチモの愛称で有名なトランペット奏者ルイ・アームストロングと歌手マーサ・レイが、歌とトランペットの掛け合いを演じています。
服部良一が笠置シヅ子を見出したとき、「彼女ならトランペットとの掛け合いができる」と、とてもワクワクしたのかもしれません。
黒人の娘の格好をしたシヅ子が、派手なダンスとともに「楽しいおかたも~」とノリノリで歌うとトランペットがそれに応えます。
「バドジズ・デジドダー」のスキャットをまじえ、全身でスイングするシヅ子の歌に評論家は大絶賛。笠置シヅ子は、24歳にして「スイングの女王」の称号を与えられます。
『ラッパと娘』はレコード化され(B面は『センチメンタル・ダイナ』)、シヅ子はコロムビアレコードの専属歌手になりました。
益田貞信から東宝への移籍話を持ちかけられ、葉山の別荘に監禁された笠置シヅ子
松竹楽劇団の看板女優として忙しい日々を送っていたある日、シヅ子はジャズピアニストの益田貞信から東宝への誘いを受けます。
東宝は、1932年(昭和7年)、映画や演劇の興行を目的として設立された株式会社東京宝塚劇場で、取締役社長には小林一三が就任しています。「東京宝塚」を略して東宝となりました。
当時、東宝は日比谷周辺に東京宝塚劇場、日本劇場、有楽座といった劇場を持ち、浅草を中心に興行を行っていた松竹と人気を二分していました。
すでに松竹楽劇団を辞めて東宝系の劇場で活躍していた益田は、シヅ子の才能を見抜いていたのでしょう。引き抜きの話をもちかけます。
松竹の看板スター・笠置シヅ子は、東宝にとってもどうしても欲しい人物でした。
東宝は月給300円を提示します。松竹より100円も高い好待遇でした。
当時のシヅ子が松竹からもらっていた給料は月200円。シヅ子は20円を下宿代、30円は自分の生活費にし、残りの150円を実家へ仕送りしていました。
その頃、養母のウメが体調を崩し入院したため、入院費や治療代もばかになりませんでした。
少しでも多く仕送りしたいと思っていたシヅ子にとって、東宝への移籍話は、とても魅力的にうつります。
ほのかな恋心を抱いていた益田のたっての頼みだったことも影響したのでしょう。シヅ子は、移籍話を承諾し契約書に判を押してしまいました。
ところが、シヅ子の引き抜きを知った松竹の面々は激怒し、シヅ子は団長の大谷博に呼び出されます。
世間知らずが招いたこととはいえ、芸能界から抹殺されてもおかしくないほどの失態でした。
勝手に東宝と契約したことを叱責され、大谷夫人の付き添いで葉山の別荘に向かい、そこで二十三日間、監禁同様の身となったのです。
身元引受人である演出家の山口国敏は出征していて相談したくても相談できず、シヅ子は服部良一に救いの手を求めました。
服部はシヅ子のために奔走し、シヅ子が松竹に留まることで移籍問題は決着。丸く収まったのでした。
シヅ子の移籍問題に影響を与えた 「長谷川一夫顔切り事件」
1930年代後半、日本の芸能界では芸人の引き抜き合戦が繰り広げられており、マスコミの過熱報道もあって芸能人の移籍問題は、世間の大きな話題となっていました。
シヅ子の引き抜きが大騒動になった理由の一つに、当時世間を騒がせた長谷川一夫顔切り事件の影響がありました。
長谷川一夫は戦前から戦後にかけて、二枚目俳優として活躍していました。
顔切り事件とは、1937年、東宝に引き抜かれたばかりの長谷川が、東宝京都撮影所の正門を出たところを暴漢に襲われ、カミソリで顔を切られた事件です。
傷は左耳下から鼻の下にかけて長さ12センチ、深さ1センチ。骨膜に達するほどの重傷でした。
当時、林長二郎の名で松竹映画の看板スターだった長谷川は、松竹から東宝に移籍したばかりでした。マスコミはこぞって「松竹に不義理をはたらいた」と長谷川非難の記事を書き、世間からは「忘恩の徒」と非難を浴びていたといいます。
事件からまもなく犯人は検挙され、懲役2年の実刑判決を受けました。
事件の背景には、ドル箱スターの獲得をめぐって映画会社間でのドロドロの争いがあり、黒幕もいたようでしたが、長谷川は事件について一切語りませんでした。
松竹から東宝へ、長谷川と同じ轍を踏もうとしたシヅ子が葉山に監禁されたのも、こうした事件を受けてのことでした。
参考文献:笠置シヅ子『歌う自画像 私のブギウギ伝記』.宝島社
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