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第一次世界大戦開戦・西部戦線の形成へ 【シュリーフェン計画】

第一次世界大戦の勃発は、ドイツとフランスとの戦いで幕を開けた。

この当時は誰もが、この戦争が世界規模の「大戦」に発展するなど考えもしない時代のことである。ましてや国力をすべて投入する「総力戦」など想像もできない話。現代に生きる我々だからこそ、冷静に状況を見ることができるが、当時の人々は知らなかった。

これが「狂気の4年間」の幕開けであることを。

シュリーフェン計画

シュリーフェン計画
※シュリーフェン計画の概要。赤が独軍、青が仏軍。独軍がベルギーを迂回し、側面、やがては仏軍の背面にまで回りこもうと計画していたのが分かる。

1914年8月1日、フランスとの戦争が勃発すると、ドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグを突破し、フランスへの侵攻を始めた。これは、戦前に立案されたシュリーフェンプラン(計画)によるものである。

同計画では、ロシアとフランスという2国を同時に相手にするという前提のもと、ロシアは兵士の動員には時間を喰うと仮定し、その間にドイツ軍主力はフランスを素早く攻撃、これを撃破。しかる後に東部方面にとって返し、ロシア軍主力と本格的に対峙するというものであった。また、フランス国境付近には天然・人工を問わず障害物が多いため、主力は国境北部のベルギーを経由してこれを迂回。ドイツ軍はギリギリの戦力でフランス国境を守りつつ、大きく迂回した主力が側面からフランス軍を叩くというのがその全容である。

立案者のフォン・シュリーフェン伯爵は、作戦の発動を見届けることなく他界したが、ドイツはこの作戦により短期間でパリまで侵攻する計画であった。

第一次マルヌ会戦

シュリーフェン計画
※第一次マルヌ会戦時の独仏両軍の戦線。赤が独軍、青が仏軍だが、いかにその戦線が長いかがよく分かる。

シュリーフェン計画に則り、ベルギー領内を進行したドイツ軍は北フランスまで進出に成功した。

しかし、フランスも戦前に「17号作戦」を計画しており、ドイツ軍の侵攻を食い止めてさらにはライン川を越えてベルリンまで侵攻するという方針を固めている。両軍の兵力は拮抗していたものの、ドイツ軍の装備はフランス軍を上回っており、一時はドイツ第1軍がパリから約50kmの地点まで近付いている。開戦からわずか一ヶ月のことであり、フランス政府の閣僚はパリを脱出るかの判断を迫られていたのだった。

しかし、フランス軍の反攻作戦が始めると、パリに迫っていたドイツ第1軍は侵攻を中断し、マヌル湖畔にて防御を固める。9月6日、両軍はマルヌ河畔を中心に戦闘を開始、その戦線はムーズ川沿岸のヴェルダンから、280kmにもわたって伸びた。しかし、ドイツ軍の兵站が十分でなかったことなどの原因によりシュリーフェン計画は失敗、17号作戦も本来の目的を果たせないままに、両軍の戦いは塹壕戦へとシフトしてゆくことになる。

クリスマス休戦

シュリーフェン計画
※クリスマスの休戦を祝う両軍の将校ら

ドイツ軍は第一次マルヌ会戦に敗北、エーヌ川まで後退した地点で侵攻を止めたと同時に、フランス軍も兵力温存のためにドイツ軍に対峙するラインに塹壕を形成した。結果、塹壕を迂回して敵の背後を突こうとする作戦と、それを阻止すべく塹壕を延長する動きがイタチごっこを生み出し、結果として長大な塹壕線が形成される。これがイギリス海峡からスイスまでいたる全長750kmの「西部戦線」となった。

本来であれば、同年のクリスマスまでには戦争が終結すると予測していた両軍の思惑は大きく外れ、1914年12月24日には非公式ながら「クリスマス休戦」を迎えることとなる。すでにフランス軍の援護ために派兵されていたイギリス軍とドイツ軍が「現場レベルでの交流」に発展した背景には、長期戦による士気の低下が両軍に蔓延していたためだ。

それ以前から、苛烈な塹壕線により多数の戦死者が戦場に捨て置かれる状態だったため、両軍の間では、戦死者を回収したり埋葬する際には、互いに攻撃を自重する(実質的な休戦)という状況が暗黙の了解となっていた。もっとも、フランスは祖国が戦場になっているという現状から休戦には参加せず、西部戦線全体から比較するとわずかな地域での休戦だったが、このような事実をひとつとっても、最前線での士気がいかに低かったのかが見て取れる。

戦線の膠着化へ

シュリーフェン計画
※西部戦線の地図。1915年から16年のもの。

年が明け、1915年からは西部戦線は膠着状態を迎える。

そのなかで大きな作戦といえるのは、戦線北部にドイツ側より突出している地域があり、これを解消すべく連合軍はイギリス軍とフランス軍に分かれてドイツ軍を挟撃することになった。5月のことである。しかし、問題はいかにドイツ軍の塹壕陣地を攻略するかである。

塹壕戦だけでも厄介だというのに、当時のドイツ軍の塹壕構築の技術は連合国側より進んでいたからだ。英軍式の平行な壕ではなく、迷路のように複雑に作られ、さらにはコンクリートの補強がされている部分もあった。

結果、イギリス軍は21万発もの砲弾を530門の大砲で撃ち込み、その後に歩兵突撃が敢行されたのである。目的は達成するも、それ以後の補給が進まずに進撃を止めざるを得ない状況となった。

最後に

このような経緯を経て西部戦線が形成された。
後にヴェルダンの戦いや、ヴォー要塞の戦いソンムの戦いといった激戦が展開され、さらには毒ガスや火炎放射器、戦車の登場により西部戦線はより凄惨な戦場へと変化してゆくのである。

参考記事:第一次世界大戦
第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国について調べてみた
ソンムの戦いについて調べてみた【世界初の戦車・実戦投入】
第一次世界大戦前における各国の立場【WW1シリーズ】
第一次世界大戦に従事した意外な人物たち【WW1シリーズ】

 

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