遷都ではなく奠都
現在、日本の首都と言えば誰もが普通に東京と即答されることと思います。
それ程当たり前すぎる事実ではありつつも、首都がなぜ東京になったのか?はあまり知られていない印象があります。
実は東京は公に京都からの「遷都」を経て首都に定められた都市ではなく「奠都(てんと)」と言う似て非なる表現で、事実上の首都とされた経緯がありました。
これは当時の政治状況を鑑み、京都や東京だけでなく日本全国に対する考慮の結果の正に苦肉の策と言うべきものでした。
この東京奠都に纏わる歴史について調べてみました。
大久保利通の変遷
明治新政府において参与となった大久保利通 は、明治元年1月(1868年2月)に明治天皇の大阪(当時は大坂)への行幸と、浪華遷都(大坂への遷都)を建白しました。しかしこの案は京都の守旧派の公家たちの反発にで実現せず、大阪への行幸のみが行われました。
この行幸でもその後の遷都への布石になりかねないと考えた公家や宮中からの反発が根強く、40日程の行幸の後、天皇は京都へ還幸しました。
同年の4月に西郷隆盛と勝海舟の歴史的会見によって江戸城の無血開城が実現すると、越後国の前島密は「江戸遷都論」を建白書として大久保に送りました。
この理由として、遷都せずとも繁栄している浪華(大坂)より、現状は大都市でありつつも首都とならなかった場合には荒廃が予想されること、また首都は出来るだけ日本の中心にあるべきこと、大阪では街全体が手狭であること、江戸には既に既存の藩邸などの再利用が可能な建物が多い事などが挙げられていました。
これを受けて大久保も江戸を首都とする考えに変わっていきました。
東西両都の建白
しかし依然として遷都自体に対する公家を始め京の民からの反発の多く、折からの戊辰戦争が収まっていない政治状況の中で新政府内でも統一した見解が確立されていませんでした。
そうした中で、慶応4年(1868年)に佐賀藩の大木喬任・江藤新平から京と江戸の両方を「東西両都」とする建白書が岩倉具視に出されました。ここにおいて東日本を統治する目的で江戸を東京と改め、混乱を抑えつつ今後は東京と京都とを鉄道で連結させるという案でした。
こうして慶応4年(1868年)7月17日に詔書が出されました。この内容は江戸が東日本における要所であることから、天皇はその地において政治を行い、それ故に江戸を東京と改称すとしたものでした。
しかしあくまで反対派への配慮もあり、遷都という明確な言い回しは用いられることなく、東西をともに京と見做すとするものでした。
明治天皇の行幸
その後、明治元年(1868年)9月20日に天皇は東京への行幸を行い、同年10月13日には江戸城へ入城し、その名称も東京城と改められました。
しかし天皇は同年12月8日に京へと一旦環幸したため、東京の民の危惧を想定して東京城の旧本丸の場所へと宮殿を建設する事が発表されました。
そうして明治2年(1869年)3月に天皇の東京への行幸が行われ、天皇が東京に滞在していることを理由に太政官も東京へと移されて、京都には留守官が配置されました。ここに以後は天皇は東京にあって政務を司ることになりました。
東京奠都「事実上の遷都」
明治4年(1871年)までの間に京都に置かれていた各種の機関は御所を除いて徐々に東京へと移行されていきました。
留守官も明治3年5月には京都から宮中へと移され、同年の12月には京都の宮内省に一本化が行われました。
こうして暫時東京への行政機能の移行が進められ、遷都というはっきりとした号令は出されないままでしたが事実上の首都・東京が実現していきました。
コメント失礼します。記事内に「薩摩藩の前島密」とありますが、前島密は越後国、つまり今の新潟県出身で薩摩出身ではありません。
ご指摘まことにありがとうございます。
修正させていただきました。m(_ _)m
ほうう
わかりやすい