鎌倉幕府初代将軍となった 源頼朝 は13歳で流人となり伊豆に流されるが、東国の武士たちをまとめて平氏を滅ぼし、征夷大将軍に就任する。
平清盛の最大の失敗とされる「頼朝の島流し」はあの徳川家康が教訓にしたとされるのだ。
頼朝は流人という立場でありながら、どうやって関東の武士たちを一つにまとめ、武家政権の礎を築いていったのか?
源頼朝の生い立ち
源頼朝は久安3年(1147年)4月8日源氏の頭領・源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)で生まれた。
父・義朝は保元元年(1156年)、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱では後白河天皇側につき、平清盛らと戦勝して左馬頭に任じられ、頼朝は上の兄たちよりも早くから出世し、義朝の後継者嫡男として扱われていた。
早い出世には母親の家柄が高いことが理由とされ、13歳には右兵衛権佐へ任じられる。
平治元年(1159年)院近臣らの対立で起こった平治の乱では父・義朝は平清盛らに敗れ捕まり処刑され、兄たちも処刑や病気で亡くなったが頼朝は伊豆国へと流された。
源頼朝が流人になった訳
父と離れ離れに逃げていた頼朝も追手に捕まり、平清盛の拠点・六波羅へと送られた。
賊軍の将の息子である頼朝の処遇は死刑が当然だったが、13歳という若い頼朝を見た清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が助命を嘆願する。
「早逝した息子の平家盛に頼朝が似ていたから」「幼過ぎて殺してしまうのは忍びない」という理由からとされる。
清盛が助命嘆願を受け入れたのは池禅尼が継母だからという理由だけではなく、池禅尼が保元の乱の際に一族の団結を促し、後白河天皇側に付くように指示した平氏の中でも大きな存在だったからだ。
また、頼朝が仕えていた上西門院や頼朝の母親の親族たちからの働きかけもあったとされる。
この情けをかけた温情ある清盛の決断がその後、平氏の滅亡につながるとはこの時の清盛は思わなかっただろう。
徳川家康は今川の人質として過ごした頃に、このことが書かれた「吾妻鏡」に心を奪われ愛読していた。
清盛と頼朝の関係を頭に入れていたため、豊臣秀吉の嫡男・秀頼を生かしておけばいずれ徳川の敵になる。だから千姫らの嘆願を聞かず豊臣家の断絶のための「大坂冬・夏の陣」をしかけて豊臣家を滅ぼしてしまうのだ。
清盛の最大の失敗と言われる「平治の乱後に義朝の息子・頼朝と義経を殺さなかった温情ある決断」がその後の歴史を変えることになる。
流人から決起まで
どうして流人である頼朝が東国の武士たちをまとめ上げることが出来たのかについては、当時の武士の立場に関係する。
当時は国から任命された国司やその代理の目代が権力をふるい土地を奪う上に、必要以上の税を取っていた。
古くからの豪族といえ中央からの役人には逆らえず、荘園の持ち主の貴族の屋敷の護衛や警護で京に出向き、多くの戦に駆り出される武士の立場は弱かったのだ。
だから豪族たちは自分の立場を良くするために血統の良い(天皇との血族)平氏や源氏の実力者や藤原氏の血筋を引く実力者と親戚関係になった。
関東の多くの豪族たちは平氏や源氏の血統で地方の国司となり、そのまま土地に住み着いた者が多かった。
特に平氏が実権を握った平治の乱後は中央の役人たちが幅を利かせ「税を出せ」「工事に人を出せ」「土地をよこせ」とひどくなっていたのである。
流人となった頼朝は平重盛の家人だった伊東祐親に預けられて最初の16年間を過ごすのである。
場所は伊豆半島東部で現在の伊東市に居たとされる。
当時の流人としての生活の資料はほとんど残っていないが、常に監視と命を狙われる中にいた。
実際に襲撃された頼朝は伊豆山神社に逃げて身を隠したこともあるのだ。
その後、北条時政の領地の伊豆半島中部にある蛭ヶ小島で暮らした。
伊豆での流人生活は楽ではなく関東には父・義朝に力ずくで従属させられた者もいて、源氏の嫡流とはいえ一族の後ろ盾がなく大変だった。
しかし、この時の緊張した関係で頼朝は「相手を侮らず」「隙を与えず」「己の面目を保つ」という関係性を学ぶ。
この経験が後の鎌倉幕府での厳格な御家人統制につながるのである。
治承2年(1178年)32歳で北条時政の娘・政子と婚姻をする。
平氏打倒の意思は常に持っていたが、何せ流人という立場だったので京の情報はブレーンの三善康信から得ていた。
頼朝が源氏の嫡流だからなのか、平氏に対する反感からなのか、流人である頼朝の元には豪族たちの師弟が多く出入りしていた。
集まった豪族の息子たちと一緒に頼朝は狩りに出かけ、平氏の流れを組む見張り役の北条時政をも取り込んでいくのである。
頼朝決起
情報を得ながら密かに打倒平氏の意思を持っていた頼朝に、治承4年(1180年)後白河法王の皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏追討を命じる令旨を諸国の源氏に発する。
同年4月、頼朝は叔父・源行家よりこれを知るも、動かずに静観していた。
以仁王の挙兵は準備不足もあって失敗し討たれてしまうが、諸国の反平氏勢力へ与えた影響は大きく、動向を見て頼朝は決起し伊豆の目代を討ちこう告げる。
「目代の支配は無くなった。これからは頼朝が伊豆を支配する」
と宣言して豪族たちの苦しみを解放したのだ。
そのような頼朝のやり方に共感した頼朝追討軍(平氏方)の武士たちも、頼朝に味方しようとする者が増えていく。
石橋山の合戦に敗れて千葉に渡った頼朝は、豪族たちを次々に味方に引き入れ房総・常陸の国府を襲い平氏の支配を砕いていった。
頼朝は働きのあった武士たちにすぐに恩賞を与えた(国司や目代の支配地を分け与える)
後の将軍と御家人の間の「御恩と奉公」の在り方は、このような実際の戦の中で作り上げられた。
目の上のたんこぶであった国司や目代の支配を頼朝は次々に武士の手に移していった。関東の豪族たちが集まって来るのも当然である。
平氏の血統の関東の有力な豪族たちが頼朝の元に集まり、優秀な人材を各地から呼び寄せ発掘し信頼のおけるリーダーとなっていく。
頼朝は鎌倉に入って平氏側の役人を全員逮捕し、敵対した武士の領地を没収して分け与える。
武士(豪族)たちが何を望んでいるかを長い20年に渡る流人生活の中で学び、それを実践していった。
富士川の戦いでは、平氏の追討軍とほとんど戦わずに勝利し、奥州からは弟・源義経が参加する。
頼朝は東国の地盤を固めて弟・義経には木曽義仲や平氏追討を指示。義経は期待に応え次々と勝利して壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する。
頼朝は許しを得ずに任官した義経を追放し奥州藤原氏に殺させて、後に平泉に攻め込み奥州藤原氏を滅亡させる。
ここで頼朝は平清盛にはない冷酷さを見せた。
それは平氏打倒にあれだけ功績のあった弟の義経・範頼を討ってしまうことである。
逆に弟であればこそ「大将たる者は温情だけではなく冷徹にもなる」と武士たちに示したのかもしれない。
これにより治承4年(1180年)から10年に渡って続いた内乱を、頼朝は終わらせた。
鎌倉幕府
文治元年(1185年)頼朝は全国に守護・地頭を置く勅許を得て、武家政権の強化を図る(鎌倉幕府を開く)。
建久元年(1190年)頼朝は上洛して関東武士が望む征夷大将軍就任に動くも、後白河法皇に認められなかった。
代わりに権大納言・右近衛大将に任じられるが1か月後には辞退して鎌倉に戻る。
幕府を開くには右近衛大将でも可能だったが頼朝は征夷大将軍にこだわり、建久3年(1192年)3月、後白河法皇が崩御した後の7月に征夷大将軍に任じられる。
征夷大将軍にこだわったのには、右近衛大将は朝廷の近衛府の長官という役職で、朝廷から独立した武家政権の主ではないこと。
後白河法皇に任じられると逆に解任される権限を法皇が持つことが出来るので、崩御を待ったとされる。
武家政権の確固たる樹立に向けて万全の準備を積んでいたことが分かる。
頼朝は流人としての20年近くで、武士たちの中央役人と平氏に対する不満を知り、恩賞と奉公の御家人関係を構築する。
頼朝の周りに自然に優秀な人材が集まり、ブレーンとして活用し後に鎌倉幕府の根幹となる「侍所」「問注所」という武士同士の争いごとや戦に備える組織づくりを行う。
「驕る平家は久しからず」は頼朝に滅亡させられた平氏の運命のことだ。
「平氏でなければ人ではない」と平治の乱の後、傍若無人な振舞いを行った平氏を流人という立場で冷静に見ていたからこそ、頼朝は関東の武士たちをまとめ上げることが出来たのだ。
頼朝から武家政権は「北条の執権政治」「足利幕府」「豊臣政権」「江戸幕府」と約700年も続くのである。
建久10年(1199年)1月13日に頼朝は53歳で生涯を閉じた。
おわりに
もし源頼朝が13歳の時に流人とならなかったら現在の日本の歴史はどうなっていたのだろうか。
平清盛が13歳の男の子の命を助けた時に、まさかこの子が将来平氏を倒して幕府を開くとは想像してはいないはず。
源氏の嫡流という血筋があったとしても、頼朝が培った人望と行動力があればこその武家政権樹立である。
豪族たちをまとめ上げる知恵は頼朝だけではなく周りのブレーンが考えたとしても、カリスマ性を持ったリーダーであったのは間違いない。
明治維新まで続いた日本の武家政治の歴史は、一人の流人から始まった。
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