北条時連(五郎)
義時の異母弟。末っ子ながら、やがて義時も政子も頼る大政治家に。のちの北条時房。※登場人物 北条 時連(瀬戸 康史)|NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
劇中では父・北条時政(演:坂東彌十郎)にくっついて回っている印象の北条時連(ほうじょう ときつら)。
数々の修羅場を潜り抜けてきた姉・政子(演:小池栄子)や兄・北条義時(演:小栗旬)に比べてまだ若く、頼りない青年ですが、これが後に大きく成長。やがて姉や兄に頼られ、甥の北条泰時(演:坂口健太郎)の相棒として鎌倉幕政に貢献します。
今回はそんな北条時連(北条時房)の生涯を駆け足で紹介。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しむ予習になれば幸いです。
五郎が北条「時房」になるまで
北条時連は平安末期の安元元年(1175年)、北条時政の三男として誕生しました。源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した治承4年(1180年)時点ではまだ6歳ですから、残念ながら初陣はお預けとなります。
通称は五郎、文治5年(1189年)に15歳で元服。烏帽子親となった三浦義連(みうら よしつら。三浦義澄の末弟)から連の字をもらい、北条の通字「時」と合わせて時連と改名しました。
その年に奥州合戦で初陣。特に武功を立ててはいないものの、ともあれ勝利で飾れて何よりでした。
容姿にすぐれて所作も優美、蹴鞠が得意であったことから頼朝の死後、鎌倉殿を継いだ源頼家(演:金子大地)の側近として寵愛されます。
しかし建仁2年(1202年)に名前をバカにされて時房と改名。馬鹿にしたのは平知康(演:矢柴俊博)。大河ドラマ劇中で木曽義仲(演:青木崇高)にブン殴られた、あの「鼓判官(つづみほうがん)」です。
……知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂抜群處。實名太下劣也。時連之連字者。貫錢貨儀歟。貫之依爲哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。將軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之。
※『吾妻鏡』建仁2年(1202年)6月5日条
「五郎殿はそのお姿と言い、立ち居振る舞いと言い、誠に抜群です。しかし名前がはなはだお下劣にございますなぁ」
「(はぁ?)……と、申されますと?」
「連とは銭を束ねる(貫く)ヒモのこと。ね、お下劣でござぁましょ?それともまさか、紀貫之(きの つらゆき)にあやかろうとしているとか?どっちみち、早く改名された方がおよろしいかと……」
知康の暴言に頼家は爆笑、すぐに改名するよう時連に命じます。
「なれば……時房とでも」
その一件を聞いて政子は激怒。当然です。
「許せない!人の名前を何とお思いかえ!かつて予州(源義経)に与して鎌倉に仇なした謀叛人の分際で、調子に乗りおって……!」
しかし義時と時房はこれを宥めます。「今は耐えましょう。今は」……頼家が鎌倉を追放され、修善寺で非業の死を遂げたのはその翌年のことでした。
父・時政の追放、承久の乱まで
さて、第3代鎌倉将軍・源実朝(演:柿澤勇人)にも使えた北条時房でしたが、比企能員(演:佐藤二朗)を滅ぼして敵なしとなった父・時政の目が曇り始めてしまいます。
「……畠山を討て」
後妻・牧の方(演:宮沢りえ。劇中では“りく”)の言いなりになって、娘婿の平賀朝雅(演:山中崇)を次の鎌倉殿に擁立しようと考えており、そのために邪魔な畠山重忠(演:中川大志)を粛清しようと言うのです。
「何を仰せか、あれほどの人物を謀叛人に仕立て上げるのに、どれほどの材料が要るとお考えですか」
「そうです。畠山殿も父上にとって娘婿……どうかご再考下され」
義時と一緒になって説得に努めた時房でしたが、結局は押し切られてしまい、泣く泣く重忠を討つことに。
平賀朝雅は武蔵守(武蔵の国司)でしたが、現地では圧倒的に重忠が支持されており、時政は朝雅の権力基盤を確保したかったのでした。
果たして元久2年(1205年)6月22日、謀叛など企んでいなかったため、丸腰同然の重忠を不意討ちで討ち滅ぼし(畠山重忠の乱)、もはや敵なしとなった時政。
しかし同年閏7月19日、牧の方による実朝暗殺計画が発覚して伊豆へと追放されてしまいます(牧氏事件)。
こうして鎌倉の舵取りは義時・政子そして時房の3兄姉弟に託されたのでした。
建暦3年(1213年)5月には侍所別当であった和田義盛(演:横田栄司)との死闘を演じ(和田合戦)、時房はその武功により上総国飯富荘を拝領します。
やがて建保7年(1219年)1月27日に実朝が暗殺されると朝廷と交渉、次の鎌倉殿候補として三寅(みとら。後の第4代将軍・藤原頼経)を京都から連れてきました。
三寅は亡き頼朝の同母姉妹である坊門姫(ぼうもんひめ)の孫であり、女系とは言え源氏の血を引いています。
しかし親朝廷派であった実朝の死によって後鳥羽上皇(演:尾上松也)との衝突は避けられず、承久3年(1221年)には承久の乱が勃発。
時房は泰時と共に鎌倉から出陣。当初はわずか19騎でしたが、やがて雲が龍に従うごとく軍勢は膨れ上がり、『吾妻鏡』では最終的に19万騎の大軍になったと伝えます。勝利を収めた時房は泰時と共に六波羅探題として京都の抑えに当たりました。
エピローグ・泰時と二人三脚
時房はその後、元仁元年(1224年)に兄・義時が亡くなると鎌倉へ戻り、泰時を補佐する連署に就任します。
元仁2年(1225年)には政子と大江広元(演:栗原英雄)も夜を去って泰時とコンビで鎌倉を支えました。
貞永元年(1232年)に藤原頼経(三寅)が政所を開設できる身分に昇進すると、時房は泰時と共に政所別当となります。
何かと泰時と二人三脚だった時房。少なからず確執もあったと言いますが、まぁコンビなんてそんなもの(むしろ表面ばかり取り繕って、後で破綻するよりよほどマシです)。
「もうアンタとはやっとれんわボケ!」「それはこっちのセリフじゃタコ!」
……なんて言いながら(たぶん言ってませんが)、必死に力を合わせて姉兄たちが切り開いた武士の都を次世代に受け継いだのでした。
そして延応2年(1240年)1月24日、時房は66歳で世を去ります。その子孫たちも鎌倉幕府を支えるべく活躍するのですが、それはまた、別の話し。
以上、ごくざっくりと北条時房の生涯をたどってきました。何だか「時房」に改名させられてから、人が変わったように感じます。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、そのように描かれるのかも知れません。これからも、瀬戸康史さんの熱演が楽しみですね!
※参考文献:
- 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年2月
- 上横手雅敬『人物叢書 北条泰時』吉川弘文館、1988年10月
この記事へのコメントはありません。