柴田勝家とは
柴田勝家とは、織田信長の宿老筆頭として天下布武を支え、「鬼柴田」「かかれ柴田」と恐れられた猛将である。
実は勝家は、かつては信長の弟・信勝(信行)の家老であり、信長とは家督争いで対立して敗れた経緯がある。
その後、信長に赦された勝家は信勝を見限り、信長の忠実な家臣となって様々な戦で武功を挙げ、織田家宿老筆頭にまで上り詰めた。
今回は、戦国の魔王こと信長の女遊びを、過激な諫言方法で叱った柴田勝家のエピソードを紹介しよう。
勝家の性格
勝家は前述した負い目があるにも関わらず、信長に対しても自分の意志を曲げず、堂々と意見を言う男だったという。
信長のような主君であれば「服従しておいた方が無難」と考えてしまいそうだが、勝家は根っからの剛毅な気質を持っていた。
元亀元年(1570年)6月、織田・徳川連合軍 vs 浅井・朝倉連合軍の「姉川の戦い」が勃発した。
かろうじて勝利した織田・徳川連合軍だったが(引き分けだったとも)、その3か月後の9月、浅井・朝倉連合軍は信長が京都を留守にしている間に、大津・松本・醍醐・山科あたりを放火した。そしてそのまま京都に攻め入るという情報が錯綜した。
この時、大坂の野田に着陣していた信長は驚き、急遽陣を引き払って23日に京都に帰還した。
信長はすぐに浅井・朝倉連合軍と対峙しようと出立しようとしたが、そんな焦りを持った信長を諫めたのが勝家だった。
この時「信長は討死した」といった噂が広がり、京都市中は混乱に陥っていたのである。
勝家は信長に「今暫く京都に留まり、将軍家を守護し、無事な姿を民衆にしっかりと見せてはどうか」と諫めた。
これに対して信長は、勝家を責め立てて「不調法だ!」と返した。
不調法とは、簡単に言えば「手際が悪い」「粗相」といったニュアンスの意味である。
柴田勝家なら、むしろ逆に「殿、早く出陣しましょう。遅すぎますぞ!」と言いそうなイメージである。信長もそういう言葉を期待していたのかもしれない。
勝家はこの時、冷静沈着に主君・信長を諫めた。そして「職場ではもうろくしたような不調法はいたしません。ただし、四畳半敷の数奇屋に入って茶などを飲む時などは、不調法はいたしますが」と言って帰ってしまった。
勝家は我が道を行くタイプの男で、主君に対しても一切の忖度もしなかった。
あの信長を全く恐れずに、誰が相手でもハッキリと物申すいわゆる強心臓の持ち主だったのである。
信長の女遊びを諫言
このエピソードは「名将言行録」において、天正3年(1575年)9月以降、勝家が越前を平定して北ノ庄城に居を構えた後の話とされている。
ただこのエピソードはあまり信長らしくないのと、「名将言行録」は幕末から明治にかけて編纂された戦国~江戸中期の武将たちの逸話集であり、信憑性は高くないとされている。興味深い逸話の一つとして楽しんでいただけたら幸いである。
勝家が治める北ノ庄城下で「妻女の誘拐事件」が起きた。
年は60歳位の姿形が美しい姥が、大勢を引き連れて妻女を脅迫し、京都へと連れていくという悪行を繰り返していたという。
この事件の噂を耳にした勝家は、さっそく問題の姥を連行し問いただすと、何とも信じられない話が姥の口から語られた。
「私は信長公に召し使われる者です。殿のお気に入りそうな妻女がおれば、この国とは限らずどこの国でも見つけ次第連れてまいれとの仰せによってやっていることです。嘘だと思われるのでしたら人をつかわして信長公にお訴え下さい」
つまり、この姥は美しい妻女を斡旋する業者で、それを命じたのは勝家の主君・信長だと言うのである。
これを聞いた勝家は「姥の言っていることは真実であろう」と迷うことなく確信したという。
信長に長年仕えている勝家は、我が主君ならさもありなんと納得したのだろう。
勝家は悩んだ末に、信長に意を唱えるべきと決断したが、今度はその手段を考えなければならない。
それこそ間違った解釈をされて、自分が成敗されてしまっては目も当てられない。
重要なのは事の真意を確実に主君・信長に伝えることだ。
そして悩み抜いた勝家は、驚くべき行動をとった。
なんと勝家は、「一行十余人を捕らえて全員を海に沈めてしまう」という問答無用な過激な手段に出たのである。
そして信長に対しては
「御名を汚し、女探しで諸国を廻っておりましたので罰しました。しかしながら、このことはご自分でご吟味の上お仕置きなさってしかるべきことでございます」
と報告した。
これを聞いた信長はすっかり毒気を抜かれて「そちの仕置きは神妙であった。今後そのような者があればこちらに知らせよ」と返答した。
それから信長は、妻女狩りは思い留まったという。
おわりに
戦国時代は人身売買が横行し、戦の後は「乱取り」という人や物を掠奪する行為が日常的だったことは事実である。
上記の逸話は前述した通りあくまで伝聞であるが、柴田勝家が堂々と意見を言う剛毅な男であったことは事実であろう。
織田家筆頭家老であり信長よりも年上だった勝家は、主君が大きく道を外さないように日々見守っていたに違いない。
参考文献 : 「信長公記」「名将言行録」
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