戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・佐々成政(さっさ なりまさ)は、織田信長の親衛隊である「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭として取り立てられ、その後も数々の戦で活躍を見せた誉れ高い名将だ。
成政は特に鉄砲に関する知識や技術に長けた人物で、織田家の鉄砲部隊が戦国時代最強を誇ったのも、成政の指導があったからこそだといわれている。
武将としての手腕を信長に認められ、「長篠の戦い」では武田勝頼率いる騎馬隊に勝利し、柴田勝頼の与力を経て越中国一国守護(大名)になるまで出世した成政だが、その後は不運が続き、最期は「肥後国人一揆」の責を問われて豊臣秀吉に切腹を命じられ、無念の中で非業の死を遂げた。
この成政にまつわるある呪いの伝説が、富山で語り継がれていることをご存知だろうか。
それは成政がこよなく愛した「早百合(さゆり、小百合とも)」という名の愛妾が、成政と佐々家を呪いながら惨たらしく殺され、成政の無念の死と佐々家の衰退を招いたという伝説だ。
この記事では、黒百合という花の花言葉の由来にもなった「白山の黒百合伝説」や、佐々成政という武将の人物像に迫っていく。
白山の黒百合伝説
「白山の黒百合伝説」の詳細については、文献によって異なる箇所はあるが、概ね下記のような話である。
伝説の舞台は、越中国(現在の富山県)。成政が富山城主として、越中一帯を治めていた頃の話だ。
成政は早百合という美しい女をこよなく愛して、城内で過ごす時にはいつも側に置いていた。
この早百合という女は五福という村の豪農・奥野与左衛門の娘で、富山城主となった成政が領内を巡視した折に見つけてあまりの美しさに一目で気に入り、妾として迎え入れた女だった。
成政の愛を一身に受けた早百合は、めでたく成政の子を身籠った。
天正12年、成政は秀吉討伐をはかり、雪深い立山の峠を越えて越中から信州、信州から浜松まで赴き、家康と面会したといわれる。
これが、かの有名な「さらさら越え」だ。
しかし家康は、成政の申し出を聞き入れなかったため、成政は越中富山へ無念の帰郷を果たす。
願い叶わず落胆して富山城に帰還した成政の耳に、聞き捨てならない噂が入ってきた。
何と愛する早百合が身籠っている胎の子が、成政ではなく、成政の近侍と密通して孕んだ子だというのだ。
成政は激怒し、早百合を捕まえて引きずり回し、神通川のほとりの一本榎に早百合の髪を逆手に取って吊るし上げ、命乞いに耳も貸さずにめった斬りにして殺してしまった。
それだけでは飽き足らず、怒り心頭の成政は早百合の一族18名もすべて捕らえ、首をはねて獄門磔の刑に処したのだ。
しかし、早百合の胎の子が近侍と不義密通したうえで孕んだ子という噂は、まったくのデマだった。根も葉もない噂を流したのは、早百合に対する成政の寵愛ぶりを妬む、他の妾の仕業だった。
無実の早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら、佐々家は滅ぶでしょう」と、成政に対して呪いの言葉を遺して死んでいった。
やがて立山に黒百合の花が咲いた頃、越中を追われ肥後一国を与えられていた成政は、黒百合を取り寄せて新たに主君となった秀吉の正室である北政所(おね)に献上した。北政所は見たこともない黒百合に喜び、自らが主宰する茶会で披露した。
しかし、秀吉の側室で近江の生まれである淀殿が、その花が「白山の黒百合」であることを言い当て、後日、大量の黒百合を取り寄せて茶会で「珍しくもない」と言わんばかりに粗末に飾り付けた。
出鱈目を教えられて恥をかかされたと思った北政所は、成政を逆恨みするようになる。
そして北政所にも見限られた成政は、肥後で起きた一揆の責を問われて秀吉に謝罪を申し出るも、受け入れられず切腹を命じられ、佐々家も早百合の言葉通りに途絶えてしまった。
以上が「白山の黒百合伝説」の概要である。
黒百合伝説の真実とは
黒百合伝説は後に全国的に広まり、クロユリという花の花言葉が「愛」と「呪い」の由来ともなったのだが、近年の調査では、黒百合伝説の中で成政の人物像が意図的に歪曲して伝えられていた可能性が高いという。
約12年にわたり成政の生涯を研究した富山市出身の作家・遠藤和子氏は、「成政は家臣だけでなく、越中の民衆にも慕われる名将であった。しかし、成政の後に越中を支配した前田氏の策略によって事実が歪められ、黒百合伝説が広まり、成政は極悪非道の武将という不名誉な評価を受けることになった」と述べている。
成政に早百合という愛妾がいたことや、早百合が不義密通の疑いで処刑されたことについては、ある程度の事実である可能性がある。しかし、早百合の一族が皆処刑されたという話については、捏造されたものであるという見方が有力だ。
遠藤氏が早百合の生家跡を訪ねると、一族郎党皆殺しにされたはずの早百合の実家である奥野氏の家系が存続していたという。
また、早百合が不義密通の風評によって処刑されたことについては、当時の「疑わしきは罰する」という法に則った処罰であったとされる。
さらに、北政所と淀殿の黒百合にまつわる逸話に関しても矛盾がある。
淀殿が秀吉の側室となったのが天正16年頃、淀城に入城したのは翌年の天正17年3月で、北政所との関係の悪化があったとしてもその後のことであり、成政が切腹したのは天正16年の旧暦5月14日であることから、時系列も一致しないのだ。
また、黒百合伝説には「佐々氏が滅びた」とあるが、確かに直系の子孫はいないものの、姉方の傍系の子孫には徳川光圀に仕えた儒学者・佐々宗淳(さっさ むねきよ)、初代内閣安全保障室室長を務めた佐々淳行(さっさ あつゆき)などがいる。
つまり『絵本太閤記』にも記された「黒百合伝説」は、成政の名を貶めるために捏造され、語り継がれてきた伝説に過ぎなかったのである。
黒百合伝説にまつわる史跡や逸話
たとえ作り話だったとしても、成政の死後に流布された「黒百合伝説」は、雲の上の人々のスキャンダラスな愛憎劇として民衆の興味を引き、数百年に渡って語り継がれてきた。そのため、富山には今も早百合にまつわる多くの逸話や史跡が残されている。
富山県富山市磯部町には、早百合がその下で斬殺されたと伝わる「磯部の一本榎」の跡地が残っている。
現在その場に生えている榎は、初代の榎の種から芽吹いた2代目の木であるという。磯部の一本榎の近くには、早百合を供養するための早百合観音祠堂が建てられている。
また、この榎のすぐ傍を流れる神通川の辺りでは、雨風の強い夜には女の首と鬼火が飛び回り、人々はそれを「ぶらり火」と呼んで恐れたという怪談が伝わっている。
それだけでなく成政の姉の子孫の家系である佐々家にも、「百合」にまつわる不穏な掟は代々継承されていた。佐々淳行氏によれば、佐々家の女性の中では代々、ユリの花は飾るのも植えるのも禁忌とされていたという。
富山では佐々成政という武将は、民衆に寄り添った善政を布き、織田家の忠臣として己が信念を貫いた英雄と賞される人物だ。しかしそれでも「黒百合伝説」は埋蔵金伝説とともに、富山で長年に渡ってまことしやかに語り継がれてきた。
時の権力者の意に沿わなければ、どんなに有能で高潔な人物であったとしても、悪鬼の如くに貶められてしまうこともあるのだ。
参考 :
遠藤和子(著)『佐々成政: 悲運の知将』
遠藤和子(著)『佐々成政』
白山比咩神社 公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。