高田三之丞とは
高田三之丞(たかださんのじょう)は江戸時代の始め、尾張柳生新陰流のNo.2として柳生兵庫助利厳を支えた剣豪である。
若い頃はケンカに明け暮れ「天下のお尋ね者」となり、江戸から京都まで逃走した過去を持つ男は「柳生新陰流」と出会い、剣の道に生きることを決意した。
「おいとほしや(お気の毒に)」の掛け声と共に、一瞬で相手を倒したと云われる知られざる剣豪・高田三之丞について調べてみた。
天下のお尋ね者
高田三之丞は剣聖・上泉信綱の高弟である丸目蔵人の「タイ捨流」を学び、岐阜城主・織田秀信に仕えていたが、16歳の時に同僚を殺してしまい、岐阜を出奔して江戸へ逃げた。
しかし、江戸でも浪人5人を相手にケンカをして殺傷し、その後には旗本16人と大乱闘を起こし3人を斬殺して今度は京都に逃亡した。
京都では「大風波之助」というド派手な名前を名乗り、浪人10数人を相手にまたもや大ケンカをやらかし3人を斬殺してしまい「天下のお尋ね者」となる。
今でいう指名手配犯になってしまった。
しかし逃亡を続けていた三之丞は、たまたま出くわした辻斬りの犯人を生け捕りにしたため、その罪を許されたという。
一説には逃亡中に腕を買われて、尾張藩の竹腰家に仕えていた時に辻斬りの犯人を捕まえたという説もある。
罪を許されたことで改心した三之丞は「自分には剣しかない」と思い武者修行の旅に出て、遠州・掛川で柳生兵庫助利厳と勝負になったという。
竹腰家の主人が「うちにはこんなに強い奴がいる」と自慢したため、尾張藩剣術指南役の柳生兵庫助と試合になったとも言われている。
いずれにしろ、三之丞は柳生兵庫助と試合をすることになった。
柳生新陰流との出会い
丸目タイ捨流の使い手で、今まで誰にも負けたことのなかった三之丞は、当然この試合を受けた。
しかし、相手は「天下無双」と言われた柳生石舟斎の孫で、石舟斎から直々に「新陰流」の正統な3世を継いだあの柳生兵庫助である。
二度試合を行うも、二度とも兵庫助にコテンパンに負けてしまい、三之丞はその場で弟子入りを志願した。
そして、それまでの慢心を捨て兵庫助の弟子として一心不乱に稽古に励み「新陰流」で剣の道を極めようと心に決めた。
実は兵庫助も若い頃、熊本藩加藤家に仕えていた時に同僚とケンカをして殺してしまった苦い過去があり、三之丞は師・兵庫助に自分と通じるものを感じていたのかもしれない。
稽古に励んだ三之丞は「兵庫助第一の高足」と呼ばれるほど上達して、尾張藩主・徳川義直に仕えるまでになった。
尾張柳生No.2の座についた三之丞は、腕試しに兵庫助の道場を訪れる多くの剣客たちの相手を、兵庫助の代わりに務めたという。
おいとほしや(お気の毒に)
当時の尾張柳生家には、仕官を求める剣客たちや名前を売ろうとする剣客たちが多数訪れている。
三之丞は、試合の時はいつも口癖の「おいとほしや(お気の毒に)」とつぶやき、瞬時に相手を倒していたという。
ある日、帯刀朱念という剣客が兵庫助に手合わせを求めてやって来た。
いつもように三之丞が相手となり、長竹刀の帯刀朱念に対し三之丞は小竹刀を手に持った。
三之丞は、手を縮めて袖口に引きつけるように小竹刀を構え「おいとほしや」と言いながら、物凄い速さで帯刀朱念の眉間を打った。
打たれた帯刀朱念は、その場で三之丞の直弟子に志願したという。
これを見た兵庫助は三之丞の妙技に「一生の出来事なり」と唸ったという。
剣聖の孫 上泉義胤との勝負
ある時、兵庫助は剣聖・上泉信綱の孫で「無楽流」居合術の達人・上泉義胤(かみいずみ よしたね)を尾張藩の剣術指南役にと推挙し、いつものように三之丞と試合をさせた。
試合は三番勝負で、一本目は三之丞が圧倒的に押し込んでいつものように「おいとほしや」の決め台詞と共に、一撃で決めた。
すると上泉義胤は、だらだらとあぶら汗を流し中座を申して出て道場から出て行くと、なかなか戻って来なかった。
三之丞や兵庫助たちは「臆したか」と思ったが、上泉義胤はスッキリした顔で戻って来た。
そして二本目が再開すると、三之丞は全く手が出せないまま上泉義胤に一本をとられ、続く三本目も一方的な展開で負けてしまった。
驚いた兵庫助は、上泉義胤に中座の間に何をしていたのかと聞くと「厠(トイレ)へ行っていた、立派なのが出ました」と答えたという。
三之丞も敵わなかった、変わった剣豪もいたという逸話である。
尾張柳生を支える
江戸の柳生宗矩は、将軍家指南役と1万2,000石を超える大名へと出世し、江戸の柳生新陰流は「天下の兵法」と呼ばれた。
「新陰流」の正統を継ぎ、実力は尾張柳生だと言われていた兵庫助は、江戸柳生に対して忸怩たる思いがあったという。
三之丞は上泉義胤には負けたが、他の剣客たちには負けず、兵庫助と手合わせできた者はいなかったとされている。
剣聖・上泉信綱も、手合わせに訪れた剣客には弟子の疋田豊五郎に相手をさせていたので、三之丞の強さは兵庫助の「新陰流の正統」を上泉信綱と同じレベルに引き上げたとも言える。
その後、兵庫助と三之丞に加え、上泉義胤の居合術も仕込まれた兵庫助の三男・柳生厳包(やぎゅうとしかね)は、江戸柳生の柳生宗冬を打ち破り「尾張の麒麟児」「天才剣士」「柳生新陰流最強の剣士」と謳われ、尾張柳生の名を全国に知らしめた。(※ただし柳生厳包と柳生宗冬の試合は史料的な裏付けはないとされる)
尾張柳生の流派は尾張藩の御流儀となり、新陰流の地位は不動のものとなった。
おわりに
高田三之丞は訛っていたために「お気の毒に」を「おいとほしや」と言ったという。
かつてお尋ね者だった三之丞は改心し、師・柳生兵庫助利厳と共に、新陰流最高の剣士とされる柳生厳包を育て上げたのだ。
尾張柳生が実力では江戸柳生を上回っていたと「言われてた」とか柳生厳包(やぎゅうとしかね)が江戸柳生の柳生宗冬を打ち破ったという話は、仰る通り史料的な裏付けは昭和になってから当時の尾張柳生宗家の方が出版された本が初出なのでまあ信憑性はお察しですよね。
その本の中だと厳包に指の骨を砕かれたはずの宗冬が試合があったはずの一週間後に緒大名の前で剣術を披露した記録も残っていますし。