桜田門外の変以前の刃傷事件
幕末に幕府のNo.2である大老が殺された「桜田門外の変」は、将軍のお膝元である江戸城の門で起きたため、日本中に衝撃を与えた。
実は「桜田門外の変」が起きる約180年以上前の貞享元年(1684年)にも、大老が江戸城内において刃傷事件で亡くなっている。
亡くなったのは時の大老・堀田正俊(ほったまさとし)、加害者は堀田正俊の従兄の子である親戚の稲葉正休(いなばまさやす)である。
なんと幕閣たちが集まっていた御用部屋で刃傷事件は起こり、犯人の稲葉正休はたちまち取り囲まれてその場で切り殺されたために、どういう動機で刃傷に及んだのか理由は謎のままである。
「水戸黄門」で知られる徳川光圀が老中たちを問責したが事件の真相は闇に葬られてしまった。噂話が大好きな江戸の人々は憶測を飛ばし、中には時の将軍・徳川綱吉の陰謀ではないかという説もあったという。
ただ、この刃傷事件によって将軍・綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中たちの御用部屋は表へと遠ざけられた。
そして両者をつなぐ柳沢吉保・牧野成貞ら、側用人が絶大な権力を持つなったきっかけになった事件でもある。
堀田正俊とは
堀田正俊は、寛永11年(1634年)3代将軍・徳川家光政権下で老中を務めた堀田正盛の三男として生まれた。
寛永12年(1635年)義理の曾祖母にあたる春日局の養子となり、その縁から将軍・家光の嫡男である竹千代(後の4代将軍・家綱)の小姓に任じられ、寛永20年(1643年)将軍・家光の上意で春日局の孫にあたる稲葉正則の娘と婚約し、春日局の遺領3,000石を与えられている。
慶安4年(1651年)将軍・家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、遺領のうち下野新田1万石を分与され1万3,000石の守谷城主となり大名となる。
その後、家綱時代になると奏者番、若年寄、老中となり2万石の加増を受けた。延宝8年(1680年)将軍・家綱の死去にあたり家綱時代に権勢をふるった大老・酒井忠清と対立し、5代将軍に綱吉を推し見事5代将軍に就任させ、天和元年(1681年)酒井忠清に代わって大老に就任したのである。
堀田正俊は、特に財政面において大きな成果を上げたという。
綱吉を将軍にした最大の功労者・大恩人とも言える人物であるが、そのため大きな発言力があり傲慢になっていたようで、綱吉や他の側近から疎まれていたとも言われている。
稲葉正休とは
稲葉正休は、寛永17年(1640年)美濃青野藩主・稲葉正吉の子として生まれた。
父・正吉は、春日局の息子で3代将軍・家光の側近として仕えた稲葉正勝の異母弟で、5,000石を領した旗本であった。
正休は春日局とは血縁はないが孫にあたる。
明暦2年(1656年)亡くなった父の遺領を継いで5,000石を領し、その後は延宝2年(1674年)に小姓組頭となり順調に出世し、書院番頭、将軍近習を経て天和2年(1682年)には若年寄に就任し加増され、青野藩1万2,000石の大名となった。
天和3年(1683年)水害に悩まされていた大坂の淀川に赴き、豪商でありながら新航路を開拓し、治水工事のスペシャリストである河村瑞賢(かわむらずいけん)と視察を行い、瑞賢と共に「淀川治水策」をまとめた。
河村瑞賢の考えた淀川の治水工事は大規模で長期化する一大プロジェクトであり、正休はその費用を「4万両」と幕府に計上した。
しかし大老の堀田正俊が4万両という金額を不審に思い、別途に河村瑞賢を問いただしたところ「半額の2万両でも可能」との意見を得たことから、正休は淀川の治水工事から外されることになった。
刃傷事件
淀川の治水工事を解任された稲葉正休は、大老の堀田正俊を恨んでいたとされている。
貞享元年(1684年)8月28日、稲葉正休はこの日の朝食の席で上屋敷に仕える医師を招いて相伴させた。
正休は高名な刀鍛冶に数本の刀を特注し、試し斬りの末に一番出来の良い脇差を医師らに見せて「この刀、虎徹じゃが如何じゃ」と質問した。
大半の医師は「この刀はよく斬れましょう」と賞賛したが、1人だけは「この刀で斬られれば、おそらく治療もかないますまい」と答えたという。
その脇差は1尺6~7寸(約50cm)あり拵が新しかった。正休はその脇差を帯刀して江戸城に登城した。
正休は、江戸城本丸の御用部屋の入口まで邪魔が入らないように堀田正俊を呼び出し、廊下で堀田正俊の脇の下から左の肩先まで一突きで貫通した。
この日、御用部屋には老中や若年寄ら幕閣が集まっていたため、犯人の正休はたちまち取り囲まれ、駆け付けた老中たち大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武の3名に、その場で斬り殺されてしまった。
そのため、正休がどういう動機で刃傷事件に及んだのかは謎となってしまった。
御三家の水戸・徳川光圀が老中たちを問責したが、満足な回答は得られず事件の真相は闇に葬られた。
正休の懐には「累代の御高恩に応え、筑前守(堀田正俊)を討ち果たす……」という遺書が発見された。
堀田正俊は即死ではなく、医師の手当てを受けた後に重体のまま自邸に運ばれ、そこで息を引き取ったという。
暗殺陰謀説
幕府の記録は「正休が発狂したため」とされたが、この事件は様々な憶測を呼んだ。
大坂の淀川治水工事の意見の対立や、正休がその場で殺害されていることから将軍・綱吉の関与も囁かれた。
実は堀田正俊が暗殺される直前に綱吉は「生類憐みの令」を発布することを表明していたが、堀田正俊は生類憐みの令に反対していたという説もある。
綱吉を将軍に就任させた大功労者である堀田正俊には大きな発言力があり、将軍・綱吉との間にいつしか溝が生じていたことから、綱吉による陰謀説が生じたのである。
稲葉家は改易処分となったが、堀田正俊は幕閣たちや将軍の側近からその傲慢さを疎まれていたため、正休に対する同情の声も多かったという。
おわりに
この「稲葉正休事件」は江戸城内で起きた2つ目の刃傷事件で、幕閣のトップである大老が御用部屋で殺害されたことで大きな注目を浴び憶測が飛び交った。
将軍・綱吉はそれまで中奥にあった御用部屋を表へと遠ざけてしまい、その間を取り持つ柳沢吉保や牧野成貞が側用人として権力を持つことになっていくのである。
この事件が起きた17年後に3番目の江戸城内の刃傷事件、浅野内匠頭が吉良上野介を傷つけた有名な「浅野長矩事件」が起きている。
【他の刃傷事件】
いじめられた側がブチ切れて5人を殺傷した「松平外記事件」 千代田の刃傷
江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」
水野忠恒事件 「狂気乱心いきなり斬りつけ~二度目の松之大廊下刃傷事件 」
逆から見た忠臣蔵 「吉良上野介は本当に悪者だったのか?」
貞享元年の西暦がが200年間違っとるよ。1684年に直しとき。
修正させていただきました!ご指摘誠にありがとうございますm(_ _)m