奈良の春日大社で3月に行われる「春日祭」。平安貴族であった藤原氏の氏神祭である。
この祭りには毎年、天皇からの勅使が遣わされるのだが、その起源は平安時代にまで遡るという。
平安時代中期、天皇と藤原氏の絆は最も深まった。それを築き上げた人物こそ「藤原道長(ふじわらのみちなが)」である。最強の貴族とまで呼ばれた藤原道長とはどのような人物だったのだろうか。
公卿への道
10世紀後半、朝廷では天皇を中心に貴族たちによる政治が行われていた。当時の貴族は約150人。そのなかのわずか20人が公卿(くぎょう)と呼ばれ国政を司る。公卿も左大臣を最高位として、貴族たちの間では激しい政治抗争が繰り広げられてきた。
その結果、公卿の大半を取り込んで力を付けたのが「藤原氏」一族である。
天元3年(980年)、一人の男が貴族社会に登場した。「藤原道長」、15歳。右大臣・藤原兼家の5男である。病弱な道長は、朝廷での昇進などさらさら考えていなかったが、22歳のときに転機が訪れた。左大臣・源雅信の娘「倫子(りんし)」との結婚である。当時の結婚は、婿入りが当たり前であり、道長も左大臣家の莫大な財産と名誉を手にすることになる。
あくる年、道長は「権中納言」として公卿の一員となった。兄たちと同じく政権の中核を担うことになる。長徳元年(995年)、全国で疫病が蔓延すると、公卿のうち7人も亡くなってしまい、主要ポストで残ったのはわずか3人しかいなかった。
政権の頂点へ
残った3人のうちのひとりが、権大納言となった道長である。間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長はNo.2の右大臣、甥の伊周(これちか)はNo.3の内大臣に留任となり、道長は甥の地位を抜いた。左大臣は空席のまま、道長は30歳で政権の頂点に立ったのだ。
しかし、当時の藤原一族の一人が書き残した「小右記(しょうゆうき)」には、
『長徳元年7月24日、内裏で道長と伊周が乱闘さながらの口論となった』
『7月27日、両者の従者同士が衝突し、道長の従者が殺された』
と記されており、伊周の道長への怒りが見て取れる。だが、道長は動かなかった。もし、伊周に処分を下せば、一族内で骨肉の争いが起きると考えたのだ。やがて伊周は自らの乱心行為により、自滅に追い込まれ大宰府へと流罪になる。
長徳2年(996年)、伊周が流罪となったことで、道長は左大臣へと昇格した。31歳という若さで名実共に政権のトップに立ったのである。
これが、一族で争うことのない安定した政権作りへの始まりだった。
外戚への布石
京都の「陽明文庫(ようめいぶんこ)」には、藤原家ゆかりの品が20万点ほど保管されている。ここには左大臣となった道長が、どのようにして政権を安定させようとしたのかの手掛かりが残されている。国宝『御堂関白記(みどうかんぱくき)』は、左大臣となってからの日記だ。そのほとんどは、日常の出来事を簡潔に記したものだが、時に詳細に記したところもある。それは左大臣就任後に天皇家に嫁がせた娘たちの記録だった。
道長は娘が天皇の子を産むことで、母方の祖父、すなわち外戚となることに執念を燃やす。道長は天皇家との間に外戚関係を築くことで、その地位を確固たるものにしようとしていた。将来、天皇の権力を背景に、強固な政権を目指したのである。
長保元年(999年)11月、道長の長女「彰子(しょうし)」が、時の天皇、一条天皇に嫁ぐことになる。このとき、天皇には正室のほか、3人の側室がいたためか、彰子は入内(じゅだい)から5年が過ぎても身ごもる気配がない。そこで道長は『源氏物語』の作者として名高い紫式部に彰子の教育を委ね、教養の高さで一条天皇の興味をひかせようとした。
そして、寛弘5年(1008年)9月、遂に彰子と一条天皇との間に皇子が生まれたのである。名を「敦成(あつひら)親王」といった。
天下滅亡か
これに感激した道長覇は『皇子が産まれ、喜びは並一通りのものではなかった』と書き記している。彰子が入内してから9年、道長はようやく政権を安定させる切っ掛けを掴んだ。
寛弘8年(1011年)6月、道長の娘・彰子が嫁いでいた一条天皇が、病のために32歳の若さで崩御。
10月、道長の姉と令泉(れいぜい)天皇との間に生まれた三条天皇が即位する。三条天皇は直接道長の血を引いていなかったが、皇太子には彰子の子・敦成(あつひら)親王が選ばれた。道長は、次の天皇に自らの血を引く孫が選ばれたことでひとまず安心する。
だが、この次の天皇の座を巡り、道長と三条天皇との間で思惑がぶつかり始めた。三条天皇は、皇太子には自分の子を据えたいと考えていたのだ。『自分が生きている間に2代先までの天皇を決めておきたい』と考えた道長は、三条天皇に譲位を迫り、その回数は5回を越えた。しかし、それでも三条天皇は譲位に応じようとしない。
長和4年(1015年)11月、道長にとって好機が訪れる。内裏が二度に渡って焼け落ち、公卿たちは口々に「天下滅亡のときが来た」と話したという。
天晴
道長は天皇に謁見し、「内裏の火事は、天皇の不徳が招いたものとせん」と言い放ち、天皇に強く譲位を迫った。ここに至って三条天皇は道長に屈し、譲位することとなる。長和5年(1016年)2月、道長の孫である皇太子・敦成親王が「後一条天皇」として即位した。こうして道長は、遂に天皇の外戚となったのだ。
道長のこの日の日記には『天晴』と記されている。
それから1年後、道長はもう一人の孫である「敦良(あつなが)親王」を皇太子に立て、次の天皇も自分の血筋から生まれることが約束された。しかし、この頃の道長はすでに52歳、老いや病と戦う日々である。激しく胸を痛める道長は死期を感じ、自分の死後も末永く政権を安定させるため、後一条天皇の后に自分の三女を立てようとした。当時としても異例な甥と伯母の結婚である。これこそ、政権安定につなげるための執念であった。
寛仁2年(1018年)10月16日、道長は後一条天皇に三女が嫁いだ夜、宴を開き、居合わせた公卿たちを前にひとつの歌を歌う。
『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば(この世は自分のためにあるようなものであり、満月のように何も足りないものはない)』
「望月」という言葉には、政権を安定させたという道長の万感の思いが込められていた。その思いは実を結び、後一条天皇から3代にわたって道長の孫が皇位を継承していったのだ。
最後に
こうして、道長の思いによって長期にわたる安定政権が続いた朝廷では、王朝文化が花開いた。やがて寛仁3年3月、藤原道長は病からの救いを求めるかのように出家する。
そして、ひたすら念仏を唱え続ける日々を過ごし、万寿4年(1027年)、道長は62歳でこの世を去った。
執念で政権の長期安定だけを願った藤原道長は、その思いを遂げたのである。
関連記事:藤原道長
「藤原道長が奢り高ぶっていたというのは本当なのか」
この記事へのコメントはありません。