ロンギヌスの槍の発見
エルサレムにあるゴルゴタの丘。イエス・キリストが十字架刑に処せられたこの地には、現在、聖墳墓教会が建っている。
ローマ皇帝として初めてキリスト教を公認した、コンスタンティヌスによって建てられた教会だ。
4世紀に生きたコンスタンティヌス帝は、神の啓示を受けたことでキリスト教の信奉者となったと言われている。彼は、同様に敬虔なキリスト教徒であった母ヘレナに命じ、ゴルゴタの丘で大規模な聖遺物捜索を敢行した。
この発掘で発見されたのが、キリスト処刑の際に用いられたとされる「十字架」「罪状のプレート」「聖なる釘」そして、「ロンギヌスの槍」である。
キリストの死から300年近く経って発見されたというのは多少信ぴょう性に欠けるのだが、真偽はともかく、聖槍や聖遺物がキリスト教徒や権力者達に大きな影響を与えたのは間違いない。
聖遺物を持つ者は「正統」として扱われ、無敵の力を手に入れる。
このような伝説がまことしやかに語られるようになった背景には、聖遺物を発見したコンスタンティヌス帝自身が、政敵との争いに勝利し、ローマ唯一の皇帝に君臨するなど、栄光を手中に収めたという歴史があったからだろう。
聖遺物の伝説は、時の権力者たちの野心を高ぶらせた。
権力者たちが手にした「聖槍」の秘密
ゴルゴタの丘で発見された「ロンギヌスの槍」のその後の行方について、歴史は多くを語っていない。
6世紀頃までエルサレムに保管され、巡礼者たちの信仰の対象となっていたという記録は残っているが定かではない。
では、あのヒトラーが手に入れたという「聖槍」とはなんだったのか。ここで興味深い伝説に行き当たる。
聖遺物を手に入れたコンスタンティヌス帝が、実は「ロンギヌスの槍」のコピーを作っていたというのだ。彼は、共に発掘された「3本の聖釘」のうち、1本を使って「聖槍」を複製していたと言われる。
この聖槍のコピー、いわゆる「コンスタンティヌスの槍」こそが、権力の象徴となっていくのだ。
カール大帝とコンスタンティヌスの槍
9世紀。東西教会の分裂が決定的となった頃、聖釘で作られた「コンスタンティヌスの槍」は、ローマ教皇レオ3世の手中にあった。
ビザンツ帝国と分かれ、新たな庇護者を求めていた教皇にとって、正統の証である聖槍は大きな強みとなっていただろう。
彼は、カールの戴冠で知られるフランク王カール1世に、この槍を与えることで権威を獲得する。周辺諸国への遠征によって領土を飛躍的に拡大させ、フランク王国の全盛期を築いたカール1世。
彼に絶大な力を与えたのは、コンスタンティヌスの槍だったのだろうか。
聖槍を手にした権力者たち
フランク王カール1世の死後、コンスタンティヌスの槍はイングランドのサクソン王の手に渡ったとされる。
それから、イタリアを経て、ブルゴーニュのルドルフ王へと伝わり、その後、ザクセン王の初代国王ハインリッヒ1世が手中に収めると、その息子オットー1世が受け継いだ。
さらにオットー3世、カール4世のもとで魔力を宿したまま秘蔵される。
神聖ローマ皇帝など権威ある称号を持つ者だけが所有できたコンスタンティヌスの槍。あのナポレオンすら望んでも手に入れることはできなかったそうだ。
ヒトラーと聖槍
聖槍の魔力が再び歴史の表舞台へと姿を現すのは、1912年。ハプスブルク家の家宝として、ウィーンのホーフブルクに展示されたのだ。
これを目にしていたのが、若き日のアドルフ・ヒトラーである。
聖槍から強い魔力を感じ取った彼は、聖槍と世界を手中に収めることを決心したのだという。それから10年も経ずしてドイツ国内で勢力を強め、やがてはドイツ国首相に就任したことは周知の通りだ。
1938年にオーストリアを無血占領すると、ヒトラーは念願の聖槍を得たのだった。
そして、ヒトラーの部下であるハインリッヒ・ヒムラーにより「聖槍の騎士団」が組織され、厳重な警備のもとに置かれるのだが、米軍の手によって奪還され、ヒトラーの死後、ホーフブルクへと戻されたという。しかし一方で、奪還されたのは偽物でヒトラーが手にした聖槍は南極へと運び出されたという憶測もある。
最近行われた鑑定では、ホーフブルクに返還された聖槍には7世紀の特徴があるという結果が出ており、4世紀の「コンスタンティヌスの槍」と年代が合わないため、どこかで複製された可能性があるとする見方が濃厚となっている。
聖槍はどこに
西欧諸国を治めた権力者たちの背後には、鈍い光を放つ聖槍伝説が見え隠れしている。
現在、世界には「聖槍」が数本存在すると言われているが、本物の聖槍はどこにあるのか、真相はわかっていない。
だが、歴史を大きく動かしてきた「聖槍の魔力」だけは、確実に存在していたと言えるだろう。
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