柳沢吉保とは
生類憐みの令で知られる徳川幕府五代将軍徳川綱吉の側近として権勢を誇ったのが側用人・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)だ。
一藩士から幕府初の側用人となり、15万石の大名にまで出世した柳沢吉保について解説する。
柳沢吉保の生い立ち
柳沢吉保は万治元年(1658年)12月18日上野国舘林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれた。
吉保の柳沢一族は清和源氏の流れを引く甲斐源氏武田氏一門で、甲斐一条氏の末裔で武田信玄の家臣団「武川衆」であり、吉保の祖父は三方ヶ原の戦いや長篠の戦いにも参加している。
武田家滅亡の後に他の武川衆と共に徳川家康に仕えて、吉保の父・安忠は大坂冬の陣で活躍して、舘林藩主・徳川綱吉の家臣になっていた。
寛文4年(1664年)吉保は藩主・綱吉に初めて謁見し、延宝3年(1675年)家督を相続して小姓組番衆530石となる。
延宝4年(1676年)2月18日旗本・曽雌盛定の娘・定子と結婚する。
吉保は若い時から和歌に親しみ、北村季吟から古今伝授を受け数々の詩歌を残し、文化・芸術に才能があった。
藩主・徳川綱吉が将軍に
延宝8年(1680年)徳川綱吉が兄の四代将軍徳川家綱に跡継ぎがなく五代将軍として江戸城に入ると、吉保も幕臣となり小納戸役から始まり重用され出世していった。
綱吉は家綱時代の大老・酒井忠清を罷免して綱吉を将軍に推した老中・堀田正俊を大老に就任させて「天和の治」と称される施政改革を行う。
天和の治とは大老・堀田正俊に財政専管を命じて勘定吟味役を創置し、幕府直轄領行政の刷新や勤務不良の代官を大量に処分した改革である。
隠し子の噂
天和元年(1681年)吉保は母を江戸に呼び寄せ侍女・飯塚染子を側室とした。
飯塚染子は綱吉の愛妾で吉保に下された拝領妻であったとされ、染子が生んだ吉保の嫡男・吉里は綱吉の隠し子ではと噂をされた。
この噂の出所は綱吉が吉保の家に足しげく58回も通ったとされるからだが、現在はこの噂は否定されている。
貞享元年(1684年)大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は独裁政治を始め生類憐れみの令を出したのだ。
生類憐みの令はいつ始まったかは明らかではないが、天和2年(1682年)犬を虐殺した者を極刑にした例から始まったとされる。
その後、会津藩に生類を憐れむために鷹の献上を禁じたことを皮切りに、
「将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放して構わない」
「馬の筋を延ばさない」
「大八車で犬・猫を轢かない」
「病馬を捨てることを禁止」
「魚介類を生きたまま食用として売ることを禁止」
「犬虐待への密告に賞金」
など数多くの令が発布された。
元禄元年(1688年)吉保29歳の11月12日、将軍新政のために新設されていた側用人(そばようにん)に就任し、禄高1万2000石で上総国佐貫城主の大名になった。
側用人とは
側用人とは綱吉によって創設された将軍と老中の取り次ぎをする役職である。
将軍の命令を老中に伝達することを司ったのは大老・堀田正俊が刺殺されてから、将軍の居室が大老・老中の御用部屋から遠ざけられてできたからだ。
天和元年(1681年)舘林藩主時代の綱吉が家老・牧野成禎を最初に側用人にしたのが始まりだ。
綱吉は徳川の傍流から入った将軍であったため、徳川宗家の老中の人事を尊重せざるを得なかったので、自らの意思を伝達するために吉保を側用人として重用したと思われる。
側用人には6代将軍家宣・7代将軍家継時代の間部詮房、9代将軍家重の大岡忠光、10代将軍家治の田沼意次などがいる。
スピード出世
- 吉保は延宝3年(1675年)舘林藩士の小姓組番衆530石から将軍綱吉の側近となり、天和元年(1681)830石に天和2年(1682年)には従六位下になる。
- 天和2年(1682年)に1030石・貞享2年(1685年)従五位下になり、貞享3年(1686年)に2030石、元禄元年(1688年)には側用人と上総国佐貫城主として大名になり1万2000石となる。
- 元禄3年(1690年)に3万3000石で従四位下なり、元禄5年(1692年)に6万6000石、元禄7年(1694年)に7万2000石の武蔵国川越藩主となり、12月9日には老中格と侍従を兼帯する。
- 元禄10年(1697年)将軍家菩提寺の寛永寺の根本中堂造営の惣奉行に命じられ、翌年の元禄11年(1698年)に落成してその功績により大老が任じられる。左近衛権少将に叙任されて席次も老中の上になった。
- 元禄14年(1701年)11月26日綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられて、松平吉保と名乗り美濃守に遷任する。
- 元禄15年(1702年)朝廷に工作して綱吉の母・桂昌院に従一位を贈られる。
- 宝永元年(1704年)綱吉の後継に甲斐徳川家の綱豊が内定すると、空いた甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられて15万2000石になる。
- その年の3月に駿河の所領を返上して甲斐国の国中3郡(巨摩・山梨・八代)を与えられて、表の石高は15万石余りだが実際には22万石余りとなる。吉保45歳であった。
宝永3年(1706年)1月11日幕府筆頭の大老格になり、学問を奨励して荻生徂徠の登用など文治政治の推進を図る。
徳川綱吉の死後
宝永6年(1709年)2月19日綱吉が死去して幕府内の状況は変わり、新将軍となった六代家宣は儒学者であり、重臣の新井白石が幕府で権勢を握るようになる。
同年6月3日に吉保は隠居して家督を嫡男・吉里に譲り隠居する。
隠居後は江戸本駒込の自宅で過ごし、庭園の六義園の造営や和歌を楽しみながら余生を送り、同年11月2日に57歳の生涯を終えた。
赤穂事件
忠臣蔵で知られる赤穂事件にも吉保は関与している。
※赤穂事件について詳しくは下記を参照
堀部安兵衛について調べてみた【赤穂浪士の最強の剣豪】
浅野内匠頭について調べてみた【赤穂浪士たちが忠誠を尽くした藩主】
元禄14年(1701年)江戸城刃傷事件では浅野内匠頭を即日切腹・赤穂藩取り潰しと吉良上野介のお咎めなしを決めたのは、吉保の意向であるとされている。
翌年の赤穂浪士討ち入り事件では、吉良上野介をお咎めなしにしたことを悔いたのか、大石内蔵助ら赤穂藩士を切腹にした後に吉良家も所領没収にした。
現在のドラマや映画では、吉保は吉良上野介を焚き付け浅野内匠頭をいじめろと命じる冷酷な黒幕的存在として描かれていることが多い。
しかし、記述によると実は吉保は「吉良上野介に切腹を命じた」や「喧嘩両成敗」を主張して揺れており、綱吉の命で仕方なくという説もある。
徳川綱吉との関係性
綱吉と吉保の関係は小姓組番衆の頃、綱吉の男色の相手だったとされている。
吉保は容姿端麗の美少年だったと記述が残っている。
綱吉は男も女も両方好み、吉保は主君の好みのタイプの美童の小姓たちの調達・管理を任されていたとされる。
吉保は真面目で誠実な人柄で、権力を傘に着て悪いことはしなかった。
やりたい放題でワガママな綱吉の尻拭いを一手に引き受け、奔走していたとも考えられる。
それで綱吉に寵愛され、藩士から15万石の大名にまで出世したのかもしれない。
吉保は和歌や詩歌に優れ、文化芸術に多才であった点も綱吉と趣向が合った。
吉保が造営した江戸本駒込の六義園は、数ある大名庭園の中でも一番と評判であり、綱吉も庭園見たさに屋敷に通ったとされている。
吉保の才能
一藩士の身分から将軍徳川綱吉の側用人となって、大老格にまで幕臣として登り詰めた柳沢吉保。
多くの誤解を生んだ「生類憐みの令」を発布した将軍綱吉の真意を知る人物だったからこその大出世だったと推測できる。
吉保は誠実に領民のために様々な施策を行い尊敬される領主だった。
そんな吉保の才能を見抜いていたからこそ、綱吉は自分の側に置いたのではないか。
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