関口柔心と関口氏業とは
関口柔心・氏業(せきぐちじゅうしん・うじなり)親子は紀州徳川家の御流儀「関口新心流(せきぐちしんしんりゅう)の開祖と、その息子である。
「関口新心流」は柔術を根幹として剣術と居合術も有する総合武術であり、全国に広がり江戸時代の三大流派となり、400年後の現在も伝承されている。
開祖・関口柔心は「柔」「柔道」という言葉を初めて使ったことから「柔道の祖」とも言われ、現代柔道の「受け身」を編み出した人物である。
その息子・関口氏業は偉大な親の七光りを嫌い、指南役としての暮らしを捨てて、傾奇者の身なりで諸国を修業した人物だ。
「柔術・剣術・居合術」の達人・関口柔心と関口氏業について迫る。
関口柔心
関口柔心は慶長3年(1598年)、三河国長沢村(現在の愛知県豊川市)に関口氏幸の長男として生まれる。(ただし、生年については定かではない。)
柔心の本名は関口氏心(せきぐちうじむね)であるが、隠居して「柔心(じゅうしん)」と号しているので、ここでは柔心と記す。
柔心が生まれた関口家は戦国大名・今川義元の一門で、清和源氏の流れをくみ、祖父は今川義元の妹婿で、徳川家康の正室・筑山殿の父である。
関口家は今川家と徳川家の姻戚関係であったが、今川義元が亡くなり今川家が衰退すると徳川家に仕えた。しかし築山殿とその息子・松平信康の失脚によって柔心の父・氏幸の代には浪人となった。
柔心は名門関口家の再興を願って武芸の上達を志し、幼い頃より修練に励んだ。
家伝の武術(剣術と組討ち)をもとに全国を武者修行して廻り、居合術の開祖・林崎甚助から「神夢想林崎流」居合術を学び、三浦義辰から「三浦流柔術」の組討ちを学び、さらに長崎で中国拳法を学んだ。
関口新心流
自らの技に磨きをかけていたある日、柔心は屋根から落ちる猫が1回転して着地しているのを見て開眼し、自ら屋根から落ちるという修業を行う。
「柔らかな力の使い方」の「柔」を根本として組討ち・捕手技術の解明と再編成を行い自らの技術を「柔による技術」と呼んだ。
物に応じて逆らわない心と体のあり方と、儒書・大学の一節の「まことに日に新た、また日日に新たに、また日に新たなり」という言葉に共感を覚えて、武芸向上は日々新たな心により生まれるとして、流名を「関口新心流」とした。
柔心の「関口新心流」は評判になり、加納藩主・松平忠隆に仕え、次に大和郡山藩主・本多政勝に仕えたが、思う所があったのか自ら郡山藩の仕官の道を捨て、武芸での名門関口家の再興という大望を抱いた。
そこに柔心の大望を叶えてくれる相手、紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣から声がかかった。
徳川頼宣公は55万石の大大名であったが、気性が激しく武芸には厳しい人物であった。
頼宣は江戸の徳川宗家への強い対抗心があり、武芸でも将軍家の柳生新陰流に負けない人物を探していたが、柔心が御眼鏡に適い「客分・御合力金75両」で召し抱えられた。
頼宣公は柔心の武術に惚れ込み「代々の藩主は関口新心流を学ぶべし」と遺命し、「関口新心流」は紀州藩の「御流儀指南」となり、関口家は明治の廃藩まで紀州藩士として仕えた。
晩年、隠居剃髪して「柔心」と号し、長男の関口氏業(せきぐちうじなり)が第二代となって「関口新心流」を継いだ。
柔心は寛文10年(1670年)3月7日に亡くなった。
関口氏業
関口氏業は、父・柔心に劣らぬ腕の持ち主で「柔心の域に達した者は氏業と第三代・氏英(うじひで)の二人のみ」とされている。
氏業は謙虚で「腕前は弟・氏英が上」とし、自らを愚かな年長者という意味の「魯伯」と号して弟に武術指南役を譲り、自分は自分の価値で知行を貰うと、指南役として何不自由ない暮らしを捨てて諸国修業の旅に出た。
これにより「関口新心流」の第三代は弟・氏英が継ぎ、これ以後、宗家は氏英の子孫が継ぐことになった。
紀州藩の武術指南役を務めた名門の出でありながら、氏業は少し変わった人物であったという、身なりはまるで「傾奇者」のようにド派手な着物で、帯には鉄扇を差して3尺3寸の大太刀を腰にぶら下げていたという。
そんな格好で歩くため刀が大きく地面に擦れてしまい、鞘の先に小車をつけて引いていたという。
お供の者にも派手な着物を着させて、髪を伸ばさせ、朱塗りの脇差を持たせていた。
巡国修業の後には江戸の浜松町に「関口流」の道場を開いた。
氏業は武術だけではなく学問や文才にも優れ、治世に関しての能力にも長けていたために、江戸の諸大名から絶大な人気を誇るようになった。
氏業の門下生には信州松代藩主・真田信道や後に「渋川流」を開祖する渋川伴五郎らがいた。
弟子を斬る
氏業の名声が高まっていくと、子弟や周りの者たちの一部は驕り高ぶってしまい、その中にいつも氏業が連れて歩いていた虎蔵という男がいた。
虎蔵は、派手な着物を着た若武者で段々素行が悪くなり、氏業は頭を悩ませていたという。
氏業は、虎蔵がゆくゆくは大悪党になり「関口流」の看板に泥を塗るのではないかと思い、虎蔵を斬ることを決意する。
いつものように虎蔵を連れ出すと、青山で一刀両断のもとに斬り殺し、懐紙で刀の血を拭った。
しかし、この懐紙は松代藩主・真田幸道から拝領した物であったために、虎蔵殺しの下手人は真田の手の者という噂が立った。
氏業が真田屋敷に指南にいくと、幸道公から「虎蔵は酷い目にあり不憫なことだ。聞くところによると刀を拭った紙が真田の物であったという。密かに調べさせてはいるが、未だに手がかりがない。先生もガッカリされていることでしょう。心中お察しします」と言われた。
氏業は全てを見透かされていることを悟り、体よく挨拶だけしてその場から帰ったという。
氏業は学問や治世に優れていたために、後に「寺社奉行」「御新番組頭」などを務め、知行400石にまで加増された。
おわりに
関口柔心が開祖した「関口新心流」宗家は、江戸時代以来一子相伝で400年以上たった現在でも伝承されている。
関口新心流「新心館」 公式HP
http://www.sekiguchi-shinshinryu.com/
宮本武蔵が有名になると同姓・同名を名乗る偽者が現れたように、関口柔心の名を語った偽者が和歌山にも現れたそうだ。
関口柔心は無学であったために、紀州藩主・徳川頼宣公が儒学者を集め、議論の末に奥義の神髄を「柔」という名にしたと伝わっている。
息子・関口氏業は親の七光りを嫌い、「渋川流」の渋川伴五郎らを育て上げ「関口流」「関口新心流」は、江戸時代における一大勢力となった。
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