戦国時代

10倍の敵も恐るに足らぬ!滅びゆく武田家に殉じた戦国武将・諏訪頼辰夫婦の武勇伝

戦国時代、最強の騎馬軍団をもって天下に武名を轟かせるも、外交の失敗そして人材難によって滅ぼされてしまった甲斐(現:山梨県)の武田氏

本拠地の甲斐をはじめ、信濃(現:長野県)・駿河&遠江(現:静岡県)・上野(現:群馬県)・美濃(現:岐阜県)にまたがる最大版図を誇りながら、その末路は哀れなもので、相次ぐ家臣の離反によって見る影もなくなります。

諏訪頼辰

勝頼主従の最期。月岡芳年『勝頼於天目山遂討死図』より。

当主・武田勝頼(たけだ かつより)に落ち度がなかったとは言いませんが、平素は武田家の武威に恩恵を受けておきながら、いざ主君が落ち目とみるや次々と裏切った態度は、いかに戦国乱世とは言え、卑怯未練の誹りを免れないものです。

(実際、重臣の小山田信茂などは「主君に対する裏切り」を理由に、武田家を攻め滅ぼした織田家によって処刑されています)

……とまぁ、目も当てられない惨状でしたが、みんながみんなそうだった訳ではなく、主君に対する忠義篤く、最期まで果敢に徹底抗戦した者もいました。

そこには男性ばかりでなく、女性の姿もあったそうで、今回は諏訪頼辰(すわ よりとき)の妻(※)の武勇伝を紹介したいと思います。

(※)ネット上では名前が「はな(華?)」とありますが、根拠となる史料が不明のため、ここでは明記しません。

気になる二人の年齢は?

彼女の生年や出自については不詳、史料に登場するのがその末期の活躍のみとあって、夫の諏訪頼辰から推測するよりありません。

かく言う頼辰も生年不詳なのですが、父・諏訪満隣(みつちか。文亀元・1501年生)と伯父・諏訪頼隆(よりたか。明応8・1499年生)、その子・諏訪頼重(よりしげ。永正13・1516年生)と比較して、永正末期から大永年間(1521~1528年)の生まれと推測されます。

ただし、これだと討死した天正10年(1582年)時点で55~62歳とかなりの高齢になってしまい、戦うこともおぼつかなそうです。

そこで、もう少し父が年を取ってからの子として、弟の諏訪頼忠(よりただ。天文5・1536年)より直前の天文元~3年(1532~1534年)生まれとすれば、討死時点で49~51歳。これならギリギリでしょうか。

諏訪頼辰

婚礼の様子(イメージ)。

戦国時代は10~20歳以上の「年の差婚(政略結婚)」も珍しくはありませんでしたから、二人の年齢差を20歳とすれば、彼女の生まれは天文21~23年(1552~1554年)ごろと仮定できます。

これだと彼女が討死した時点で29~31歳。年老いた夫を支えて最期まで闘い抜いた、けなげな勇姿が目に浮かぶようですね。

こうざっくりでも仮定しておくと人物像をイメージしやすく、愛着が湧きやすくなるので、歴史的な精確性はともかくとして、興味を持つキッカケとしてはおすすめです。

幸せだった?夫婦生活

さて、頼辰(通称:勝右衛門尉-しょうゑもんのじょう)は天文11年(1542年。11~13歳時点)に父と共に武田信玄(しんげん。晴信)に仕えます。

以来、信濃の国人衆(諏訪衆)の一人として兄の諏訪頼豊(よりとよ。当主)と、諏訪大社の大祝(おおほうり。活神)となった諏訪頼忠(よりただ)を支えました。

諏訪頼辰

諏訪一族の祖先・建御名方神。Wikipediaより。

※諏訪一族は日本神話に登場する建御名方神(たけみなかたのかみ。大国主命の次男)の末裔を称し、代々にわたり世俗の当主(権力)と、神聖な大祝(権威)のツートップ制度を採って来ました。

妻との出会いは武家の通例に倣い、地元の有力者から娘をもらったか、あるいは護持している諏訪大社の神職つながりの女性かも知れません。

子供については記録がなく、頼辰の年齢(※)を考えるとそろそろ養子を検討するか、あるいはまだチャンスはあると踏んでいたか、それとも生まれたものの幼くして亡くしたため、討死時点ではいなくなっていた、という可能性も考えられます。

(※)彼女の結婚適齢期(当時は15~20歳前後)に結婚した場合、頼辰は35~40歳。現代の感覚では「まだまだ若い」と思えますが、当時としては高齢(もし初婚であればなおさら)でした。

もちろん記録のなかった夫婦生活などについても想像するよりありませんが、その最期を思えば、せめて幸せであったことを願うばかりです。

武田の意地を見せてくりょうぞ!十倍の織田勢に立ち向かう

「ふざけるな、降伏など致さぬ!」

織田家からの勧告を断固として刎ねつけ、使者の耳と鼻を削いで追い返したのは、勝頼の実弟にして武田家の誇る猛将・仁科五郎盛信(にしな ごろうもりのぶ)。

武田の重臣たちが相次いで寝返り、逃亡する中、信州高遠城(現:長野県伊那市高遠町)に兵3,000をもって立て籠もり、織田信忠(おだ のぶただ。信長の嫡男)率いる30,000の大軍を迎え撃ちます。

諏訪頼辰

「……武士の値打ちは勝ち負けじゃねぇ。戦うか逃げるか二つに一つ……多勢に驕る連中に、武田の意地を見せてやろうぜ!」織田の大軍を前に、奮い立つ仁科盛信。

「命の惜しい者は逃げるがいい!たとい我一人とて、武田の意地を天下に示す!」

「何と仰せか!我ら諏訪衆、武神の末葉(末裔)なれば命よりも名を惜しむ!」

「そうじゃ!最期まで共に闘いましょうぞ!」

「「「おおぅ……っ!」」」

その気焔は万丈にも立ち昇り、十倍の兵力をもって包囲している織田勢の方が恐れをなさんばかりです。

決戦を待ち構える城兵の中に頼辰はもちろん、その妻の姿もありました。

「よろしいか!此度ばかりは男(おのこ)も女(おなご)もありませぬ!たとい我ら諏訪衆ことごとく滅ぶとも、織田の犬輩(いぬばら)に思い知らせてやりましょうぞ!」

「「「おおぅ……!」」

こちらは城内の女衆を引き連れて、別同部隊を編成。頼辰やその僚将である小山田備中守昌成(おやまだ びっちゅうのかみ まさゆき)、小山田大学助(だいがくのすけ。昌貞?)、渡辺金太夫(わたなべ きんだゆう。照)らを支援する遊軍を担当します。

敵ながらあっぱれ!抜刀斬り込み、壮絶な最期を遂げる

時は天正10年(1582年)3月2日、高遠城への総攻撃は早暁に開始されました。

「……門が破られたぞ!」

「何の、戦さはこれからじゃ!」

攻防戦は熾烈を極め、寄手(よせて。攻める側)の織田因幡守信家(いなばのかみ のぶいえ。信長の従弟)を討ち取ったほか、1,500ばかりもの犠牲を払わしめましたが、いかんせん多勢に無勢。

力尽きた城兵らは次々と討ち取られ、頼辰や僚将らも乱戦の中に散華していきました。

(先に逝く……許せ!)

織田の軍勢はシロアリの如く城内くまなく埋め尽くし、年寄りや女子供さえ容赦なく斬り殺される阿鼻叫喚の地獄が繰り広げられます。

「……最早これまで……者ども、斬り込め!」

最後の一人になっても、死ぬまで闘い続けた諏訪頼辰の妻(イメージ)。

わずかに生き残った女衆は最後の力を振り絞り、抜刀して敵の大群へ踊り込みました。この時の奮闘ぶりを、織田方の太田牛一(おおた ぎゅういち。信定)はこう記録しました。

……諏訪勝右衛門女房、刀を抜き持ち、切ってまわり、比類なき働き前代未聞の次第なり……

※『信長公記(しんちょうこうき)』より。

逃げ出す男たちなど目もくれず、ひたすら主君へと忠義を貫き、身命を惜しまず武勇を奮ったその姿は、敵ながら誠にあっぱれなり……「前代未聞」と惜しみない賛辞が贈られています。

とは言え敗北には変わりなく、彼女もまた、夫の後を追うように壮絶な最期を遂げたのでした。

エピローグ

……嶮難・節所を越させられ、東国において強者とその隠れなき武田四郎に打ち向かい、名城の高遠の城、鹿目と屈強の侍ども入れ置き、あい抱え候を、一旦に乗り入れ、攻め破り、東国・西国の誉れを取られ、信長の御代を御相続、代々の御名誉、後胤の亀鏡に備えらるべきものなり……

【意訳】
険しい難所を踏破して東国の英雄・武田勝頼に立ち向かい、堅牢な高遠城に立て籠もった屈強の武者どもを一気に攻略。天下に名誉を示して信長の家督を継承したことは、子孫のお手本となるものである……。

これは『信長公記』の記述ですが、甲州征伐(武田討伐)において高遠城の攻防戦が最大にしてほぼ唯一のハイライトであったことを示しており、盛信主従そして頼辰夫婦らの活躍こそが、武田の意地を天下に示したと言えるでしょう。

敗北し、滅び去ったという結果をもって愚将扱いされがちだが、勝頼にも言い分と実力は十分にあった。歌川国綱『天目山勝頼討死図』より。

盛信の首級は勝頼はじめ他の者らと共に京都へ送られ、獄門にかけられましたが、残された胴体は彼らを慕っていた領民たちが密かに埋葬。その地は五郎山と呼ばれ、現代も参詣する者が絶えないそうです。

※参考文献:
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料 (中公新書)』中公新書、2018年10月
平山優ら編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年5月
柴辻俊六ら編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年1月
柴辻俊六 編『新編 武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年6月

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