渋沢栄一とは
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、幕末に攘夷を志す青年期を過ごし、幕臣・官僚を経て実業界に身を投じると500以上の企業の設立・育成に関わり、日本近代経済の礎を築き上げ「日本資本主義の父」と称された人物である。
今回は、2024年度発行の1万円札に肖像が採用されることになった渋沢栄一の、知られざる素顔・社会福祉事業における功績について前編と後編にわたって解説する。
略歴
渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家の長男として生まれた。
渋沢家は藍玉(藍の葉から作られる染料の一種)の製造販売と養蚕を兼営し、米・麦・野菜の生産も手掛ける富農であった。
原料の買い付けから製造・販売を担う家業は、一般的な農家とは異なり常に算盤をはじく商業的な才覚を求められた。栄一は父と共に信州や上州まで藍玉を売り歩くほか、原料の仕入れ調達にも携わり、14歳から単身で仕入れを行うようになっていた。
幼き頃から父に学問の手ほどきを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に論語などを学ぶ。
その後、尊王攘夷思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てたが、中止して京都に向かった。
郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し次第に認められていった。
栄一は27歳の時、15代将軍に就任した徳川慶喜の実弟・徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見物した。そして銀行や株式会社など資本主義の仕組みを学び、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通じることができた。
明治維新となり、欧州から帰国した栄一は「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府に招かれて大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わる。
明治6年(1873年)に大蔵省を辞した後、栄一は民間経済人として活動を始め「第一国立銀行」を立ち上げる。そしてここを拠点に株式会社組織による企業の創設・育成に尽力し、「道徳経済合一説」を説き続けて生涯に500もの企業に関わったと言われている。
その後も「日本資本主義の父」と呼ばれながら、約600もの教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人に惜しまれながら昭和6年(1931年)に91歳の生涯を閉じた。
東京養育院
渋沢栄一は「日本資本主義の父」と称されているが、渋沢には福祉に貢献したというもう一つの顔がある。
渋沢が活躍した明治近代初期から1920年代までは、日本には福祉がほとんど何もない状況で、制度を立ち上げていく発展期でもあった。
江戸幕府が無くなり、100万人以上いた東京(江戸)の人口は50万人ほどに半減していた。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝る場所にさえ困窮している人たちで溢れかえっていたのである。
渋沢はこの現状を目の当たりにし「何とか方法を考えて貧民の生活を助けなければ」と強い問題意識を抱いていた。
明治7年(1874年)渋沢にとって好機が訪れた。
東京府知事・大久保一翁から「七分積金の運用を引き受けてくれないか」という依頼を受けたのである。
七分積金とは、寛政の改革で老中・松平定信が行った政策で、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収して蓄えるという制度である。
飢饉や災害が起きた時にそれを「御救い米」として放出することによって、江戸の人々のセーフティーネットとして機能していたのである。
さらに松平定信は長谷川平蔵に人足寄場を作らせ、そこで無宿人たちに大工や紙すきなど手に職をつけさせ、社会への復帰と更生を図っていた。
慶応4年(1868年)江戸幕府が瓦解した時の七分積金の総額はおよそ170万両(現在の価値で約170億円)であった。明治維新後、政府によって170万両の積立金は東京会議所(旧・江戸町会所)から東京府や東京市に接収された。
東京府や東京市は、この積立金を学校の建設や道路整備など社会基盤事業に充てたが、元幕臣の東京府知事・大久保はこのお金を「貧困者の救済に使ってくれ」と渋沢に要請したのである。
渋沢は貧しい人の救済に使おうと「東京養育院」という生活困窮者の救済施設を訪れた。
そして渋沢は、子供も老人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれている状況に驚嘆した。
今で言う「ホームレス」のような人たちを収容するだけの施設だったのである。
その人たちをどうするのかという目標も無ければ、どのように維持させていこうという考えもない状態であったという。
渋沢は七分積金を使い、積極的に東京養育院の改革に乗り出す。
まず、病人や老人のために近代的な診療設備を設置、職業訓練所を設けて草鞋作りなどの技術を学ばせて社会復帰の支援をした。
子供たちには学問所を作り、知識を身に付けさせた。
渋沢は七分積金の生みの親・松平定信を生涯信奉しており、東京養育院の院長として維持・発展に尽力したのである。
後編では、東京養育院の存続危機について解説する。
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