平安時代

源範頼について調べてみた【義経と平氏を打倒した源氏武者】

鎌倉幕府を開き、武家政権の樹立を果たした源頼朝
その頼朝の弟は?と聞かれるとほとんどの方が源義経と答えると思う。

しかし、頼朝の弟は他にもおり、義経とも密接に関わった者がいた。
その者の前は源範頼(みなもとののりより)である。

2人の影に隠れてしまいがちな範頼は一体どのような活躍をしたのだろうか。今回は範頼の生涯を見ていき、それを探っていきたいと思う。

生まれてから藤原氏へ

源範頼

※源範頼 wikiより

範頼は久安6年(1150)に誕生したとされていており、父は源義朝で母は宿場の遊女である。ちなみに、範頼は遠江国(現在の静岡県)の蒲御厨(かばのみくりや)で産まれたので、蒲冠者(かばのかじゃ:蒲の若者という意味)と呼ばれていた。

幼年の時は義朝の元にはおらず、遠江国で育てられ応保元年(1161)以降には藤原範季(ふじわらののりすえ)の養子となり、以後は範季の範をもらい受け範頼と名乗るようになる。

兄である頼朝の挙兵に伴い平氏打倒に参戦するが、最初は頼朝ではなく遠江国で活動していた甲斐源氏の安田義定と関係性を持ち活動をしていたとされている。範頼が頼朝に従うようになるのは寿永2年(1183)に頼朝の叔父である志田義広が、頼朝に反旗を翻し常陸国より頼朝のいる鎌倉へ攻めかかった野木宮合戦の時で、その時範頼は援軍として力を貸している。

義経と共に平氏打倒に貢献する

※源義経 wikiより

寿永3年(1184)になると頼朝から信頼を寄せられ、木曽義仲追討軍の大将軍を頼朝の代理として務める。

範頼は先に進軍していた義経と合流し、瀬田に範頼、宇治に義経の軍を展開させ義仲を京都に閉じ込めることに成功する(宇治川の戦い)。義経が京都を強襲すると義仲が京都から逃げ出したことを察知した範頼は、軍を展開させ義仲を討伐することができた。

続く寿永4年(1185)の一ノ谷の戦いでは宇治川の戦い同様に義経と共に軍を率いて戦った。主力を率いていた範頼が平氏たちを引き付け、その間に義経が奇襲をかける作戦(鵯越の逆落とし)により、わずか7日で源氏の勝利で決着が決まった。

戦いの結果からしても義経に評価が向いてしまうが、換言で有名な梶原景時(かじわらかげとき)や勇将の畠山重忠(はたけやましげただ)などの武士たちを統率していた範頼の統率力にも評価を向けてほしい。

同年、範頼は西へ逃げた平氏追討のため備前国で平行盛と対峙する(藤戸の戦い)。平氏の持つ水軍に苦戦をしながらも勝利を収めた範頼は九州へ渡り、頼朝に任されていた反頼朝勢力や平氏に味方する西国武士の制圧を行った。その目的は平氏の孤立であり、頼みとしていた九州勢力を失った平氏は文治元年(1185)2月の屋島の戦いで敗れ、3月には壇ノ浦の戦いで範頼と義経に敗れ滅亡することになる。

平氏滅亡後

※伝源頼朝像 wikiより

壇ノ浦の戦いの後も範頼は頼朝からの命令で、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の捜索と平氏残党の討伐にあたった。このころからどんなに些細な問題が起きても自分で判断して解決せず、必ず頼朝に報告するように注意がきている。範頼はこの言いつけを守り、何かあると頼朝に相談した。また、九州から鎌倉へ帰還する際に海が荒れていることにより到着が遅れることを報告しており、このようなまめさを頼朝は評価している。反対に義経はこの言いつけを守らず、独断で行動していたため頼朝と対立するようになる。

やがて、2人の対立が表立ち、義経は奥州へ逃れた後、文治5年(1189)頼朝による追討軍によって自害することになる。範頼は同年7月に頼朝に従い、奥州合戦に参戦し奥州藤原氏を滅亡させている。

建久元年(1190)には頼朝が大納言任官のための上洛で拝賀の前駆をつとめた。前駆になったのは頼朝の弟だからという理由であるが、このことから頼朝に非常に信頼されていたことがわかる。

源範頼 修禅寺に幽閉される

※修禅寺 wikiより

鎌倉幕府が開かれて間もない建久4年(1193)に、親の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を曽我兄弟(曽我祐成・曽我時致)が討った事件が起こる(曽我兄弟の仇討ち)。この事件によって頼朝も討たれた誤報が流れ、それを聞いた頼朝の正室、北条政子は動揺してしまう。そんな政子に対して範頼は「頼朝の後は自分が控えている」というとように伝えた。この発言が政子にとっては頼朝に謀反を起こそうとしていると捉えられ頼朝に疑われてしまう。

その後、範頼は頼朝に起請文(神仏に誓いを記した文書)を送るが、その書状に範頼が『源範頼』と源姓を名乗ったことが頼朝をさらに怒らせてしまい、八方ふさがりとなってしまう。嘆き悲しむ範頼を見ていた家来の当麻太郎は危険を顧みず、頼朝の元へ範頼の潔白を証明しに行った。それも空しく範頼は伊豆国修禅寺へ幽閉されてしまう。その後は誅殺されたとされているが定かではなく、火を放って自害したともいわれている。

最後に

義経と共に平氏打倒に尽力した範頼。頼朝とは良好な関係を築いていたが、何気ない一言で全てを崩壊させてしまった。言葉というものは相手にどう伝わるかわからないことであり、政子を励まそうと気を遣った範頼を考えると不憫に思ってしまう。

口は災いの門とはまさにこのことであると思わざるを得ない。

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檜

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小学校の頃から歴史が好きで気がつけば大学で日本史を専攻にするくらい好きになってました。戦国時代~江戸時代が一番好きでその時代中心となりますが、他の時代も書きたいと思っています。

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