大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部は、藤原道長の要請で宮中に出仕。その娘で、一条天皇の中宮彰子に仕える間に、道長の支援を受け『源氏物語』を完成させました。
今回は、絶対的な権力を振るった藤原道長までに繋がる藤原氏の流れを解説いたします。
目次
藤原の姓は鎌足から不比等に引き継がれた
藤原氏の起源は、中臣鎌足が669年に天智天皇から藤原姓を賜ったことに始まります。その藤原姓は、698年に鎌足からその二男の不比等(ふひと)に受け継がれました。
不比等は672年の壬申の乱後、実務官僚として頭角を現します。
そして、持統天皇の信任を得て、娘の宮子を文武天皇、光明子を聖武天皇の妃とし、飛鳥後期から奈良前期にかけて、朝廷における藤原氏の位置を確かなものにしたのです。
南・北・式・京家の祖となった藤原4兄弟
不比等は大宝律令制定など、多大な功績を残し720年に薨御します。
彼には4人の男子がおり、それぞれが後の藤原氏の独立した家系の祖となりました。長男・武智麻呂(むちまろ)の南家、二男・房前(ふささき)の北家、三男・宇合(うまかい)の式家、四男・麻呂(まろ)の京家です。
4兄弟は連携しながら、奈良時代前期の政治を牽引。特に妹の光明子立后の際には、反対勢力となるべく、左大臣・長屋王とその一族を、聖武と図って自尽に追い込みます。これが、729(神亀6)年の長屋王の変です。
その後、武智麻呂の左大臣を筆頭に、房前・宇合・麻呂は参議に連なり、朝廷内でその地位を盤石にすると思われますが、737(天平9)年の天然痘大流行により、相次いでこの世を去りました。
式家広嗣の乱から、南家仲麻呂の全盛と滅亡
藤原4兄弟が死去した後、武智麻呂の長男・豊成、二男・仲麻呂は30代前代でした。二人は藤原氏出身議政官の空白を埋めるように相次いで参議となります。
しかし、他家の男子たちはまだ20代で、やっと五位の位を得て貴族の仲間入りを許されたものがほとんど。政権の中心は皇族出身の左大臣・橘諸兄(たちばな の もろえ)が担うことになります。
その政権に反感を抱いた式家宇合の長男・広嗣(ひろつぐ)は、740(天平12)年、任地の太宰府で吉備真備・玄昉排除のため反乱を起こしますが失敗、斬首に処されます。
この藤原広嗣の乱により、式家は一時的に没落することとなりました。
一方、北家豊成は、右大臣として橘諸兄政権の中枢で活躍します。しかし、聖武の後に孝謙天皇が即位すると、光明皇后の後ろ盾もあって、仲麻呂が急激に台頭。その権勢は諸兄・豊成を凌ぐものとなっていきました。
そして、756(天平勝宝8)年、諸兄の長子・奈良麻呂の変が発覚すると、豊成は右大臣を解官されてしまいます。こうして時代は、仲麻呂こと恵美押勝(えみのおしかつ)の独裁政権に入ることになりました。
だが、絶大な権力を振るった仲麻呂も光明皇后が崩御すると、次第に孝謙上皇に疎まれるようになり、764(天平宝字8)年には謀反を密告され挙兵。上皇軍と戦うも敗れ、琵琶湖で妻子ともども処刑されてしまいました。
平安時代~ 式家の復活と北家の台頭
仲麻呂の滅亡後、北家房前の二男・永手が左大臣となり、右大臣吉備真備とともに太政官を主導。
永手は、式家宇合の二男・良継、八男・百川とともに、称徳天皇(孝謙重祚)の崩御後に、光仁天皇を擁立。光仁のもとでも左大臣を務めます。
そして、光仁に続く桓武天皇の時代になると、永手の弟・魚名が左大臣に就任。
桓武は、自分の即位に深くかかわった宇合の孫・種継、百川の長男・緒嗣(おつぐ)を重用します。特に種継は、先任の参議たちを越え中納言に昇り、長岡京遷都の長官に任じられたほど桓武の信任を得ました。
このように桓武朝初期では、式家が復活し優勢でしたが、北家も房前の孫・内麻呂が、桓武の後の平城天皇・嵯峨天皇のもとで右大臣に昇進します。
一方、南家は807(大同2)年の伊予親王の変に連座して失速。
また、式家は種継の長男・仲成、長女・薬子が、810(大同5)年の平城太政天皇の変(薬子の変)の首謀者として処刑・自尽となり、その勢力を失っていきました。
その薬子の変において北家の内麻呂は、嵯峨の側近として貢献し、天皇の篤い信任を得たまま812(弘仁3)年に薨御しました。
現在ではあまり注目されない存在の内麻呂ですが、その後の北家の立役者ともいえる人物です。
内麻呂を引継いだ北家良房が、人臣初の摂政に
内麻呂の功績は、その長男・真夏、二男・冬嗣に受け継がれていきます。
それぞれ平城、嵯峨の側近となり、真夏は最後まで平城に近侍し、その生涯を上皇と朝廷の調停のために捧げました。
対して冬嗣は、嵯峨を支え続け、825(天長2)年には長らく空席であった左大臣に昇進。また、冬嗣の妻・美都子も尚侍として嵯峨・淳和の後宮に仕え、娘の順子は仁明天皇の女御になり、文徳天皇を産みます。
このように冬嗣の時代に、藤原北家は天皇との結びつきを強めていくのです。
藤原氏の氏長者として、多大な功績を残した冬嗣は、左大臣就任の翌年薨御します。
その後を継いだのが、冬嗣の二男・良房(よしふさ)でした。
良房は嵯峨皇女の源潔姫を妻としますが、この結婚は嵯峨の強い要望とも言われ、良房の力量が高く評価されていたことが伺えます。
そして、仁明朝においては、840(承和7)年の承和の変を経て、848(承和15)年に右大臣に昇進し、その独裁体制をほぼ確立しました。さらに、858(天安2)年には、左大臣を経ずに太政大臣に昇進。生前に太政大臣に就任するのは、平安朝になって初めてのことでした。
同年、文徳天皇が崩御すると、良房の外孫・惟仁親王が、わずか9歳で即位し清和天皇となります。幼い清和の後見は、良房に委ねられ人臣初の摂政となるのです。
しかしながら、良房の摂政就任時期については諸説あり、実際は摂政任命の勅がないまま、清和が成人した後も天皇を扶けたとの説もあります。
このことは、866(貞観8)年の応天門の変の際に、清和が「太政大臣(良房)に勅して、天下の政を摂行せしむ」としていることからも伺えるのです。
またこの年、良房の養子・基経(もとつね)は参議から中納言に昇進しました。
良房・基経の家系が道長・頼道の御堂流となる
清和が「義は君臣たるも恩は父母に過ぐ」とまで述べた良房は、872年(貞観14)年に薨御。
正一位が追贈され、忠仁公の謚(おくりな)を賜るという、従来の廷臣にみられない厚い待遇を受けました。
その良房の政治的地位は、基経が受け継ぐことになります。
876(貞観18)年、清和が僅か9歳の陽成天皇が譲位すると、良房同様に幼帝を補佐することを求めました。880(元慶4)年、清和が崩御すると、太政大臣に昇進します。
しかし、陽成と基経の関係は良好なものにならず、陽成は即位から僅か4年後に病気を理由に退位。
次いで、55歳の光孝天皇が即位すると、基経に摂政の立場ではない政務への関与を求めました。
光孝の後を受けた宇多天皇もその措置を継続。
「其れ万機巨細、百官己を統(す)ぶるは、皆太政大臣に関り白し(あずかりもうし)、然る後に奏下すること、一ら旧事の如くせよ」
と勅しました。
しかし、この内容をめぐり、阿衡事件(あこうじけん)が勃発。宇多の措置を不満に思った基経は出仕を拒否します。この政争により、成人天皇を補佐する「関白」の制度が定着することとなりました。
基経は891(寛平3)年に薨御しますが、この後、良房・基経の系統が天皇との外戚関係を深めながら、「摂政・関白」を独占していくことになります。
基経の四男・忠平の子や孫たちは、一族間で激しく摂関の地位を争い、やがて忠平の孫・兼家の子・道長が自らの娘を相次いで天皇の后とすることにより、「御堂流」としてその子孫が摂関家の家柄を確立していくのです。
※参考文献
佐藤信編『古代史講義 氏族篇】ちくま新書 2021年7月5日
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