幕末明治

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

江戸幕府崩壊のきっかけとなったのは、1853年の黒船来航である。

黒船来航がきっかけとなり、260年続いた徳川の天下は一気に崩れることになる。

では黒船来航がなかったら江戸幕府はどうなっていたのだろうか?

幕末時代を別視点から探ってみた。

開国の可能性

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

画像 : 江戸とオランダ wiki c

江戸時代は完全な鎖国ではなく、実は外交は盛んに行われていた。江戸市中には幕府公認のオランダ人専用宿舎もあったほどである。

1789年にロシア使節団、1804年には朝鮮使節団を迎え入れている。

時期を黒船来航直前後に限定しても、数多の外国籍船が日本に集結していた。一隻ずつ挙げればきりがないが、開国と結びつけるのなら1844年のオランダ使節団の来航は抑えておきたい。

オランダ使節団が幕府へ要求したのは「開国」である。

結果的に幕府側の完全拒否で幕を閉じたが、開国の要請は既に始まっていた。

開国を迫るイギリス

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

画像 : イギリス船 ※wikipedia 「アヘン戦争」から引用

黒船来航がなかった場合、イギリスが開国を迫っていた可能性は高い。

1854年にクリミア戦争が勃発し、イギリスとロシアは戦争の真っただ中にいた。ロシア追撃のために来日したイギリスは幕府と交渉し「日英和親条約」を締結する。函館と長崎の開港と必需品の補給が、主な条約内容である。

内容だけ見ると不平等な条約だが、日本の立場を考えると仕方ない決断と言えるだろう。

なぜなら、日本もクリミア戦争に巻き込まれる恐れがあったからだ。またイギリスはアヘン戦争で、大国中国を負かした国である。イギリスを味方に引き入れることで、大きな後ろ盾を得ようとしていたのだろう。

薩摩と長州

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

画像:薩摩

次は幕末の中心となった、薩摩長州にスポットを当てて考えたい。

そもそも薩摩や長州が倒幕に乗り出した理由は「攘夷」にあった。

天皇や幕府も攘夷に動いていたが弱腰姿勢を貫いていた。不甲斐ないお上の姿勢は、血気ある志士にとっては腸煮える思いだったのだろう。

しかし外国籍船来航がなく鎖国が続いていたら、長州藩と薩摩藩が倒幕に乗り出すこともなかったはずである。

薩英戦争下関戦争はもちろん、桜田門外の変池田屋事件も起きていなかった可能性は高い。

幕末期は両藩とも財政難に苦しんでいたが、少々強引なやり方で経済の立て直しを実現させていた。多少なりの恨みは持っていたかもしれないが、倒幕へ動くと考えるのは強引過ぎるだろう。

幕末期の経済状況

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

画像:天保の大飢饉 ※wikipedia「Tenpo aclığı(天保の大飢饉)」より引用

財政難に悩んでいたのは薩摩や長州だけではなく、江戸幕府も頭を抱えていた。

財政難は、11代将軍徳川家斉の頃から深刻化する。

不景気の原因は「天保の飢饉」と言われているが、表向きのものでしかない。根本的な原因となったのは産業の変化である。

幕府を支えていたのは、農家から徴収した税金(年貢)だった。農家以外からも税金の徴収はあったものの、農家と比べると重いものではない。ところが時代が進むと、サービス業や加工製品の生産販売が産業の中心となる。

農家からサービス・加工製品業へ転職すれば税金もかからないため、農地を手放す人が後を絶たなかった。

農業が成り立たなくなると税収がなくなり、幕府の財政は悪化する。専売制の検討もされたが民衆の支持を得ることはなかった。専売制は幕府にとって大きな利益になるが、生産者や販売者にとっては赤字でしかない。

そんな中で起きてしまったのが、後に江戸の四大飢饉として名を連ねる「天保の飢饉」である。

物流は機能せず物価は上昇し、人々の生活は窮地に陥ってしまった。

天保の改革

もし黒船来航がなければ、江戸時代は続いていたのか?

画像 : 水野忠邦 wiki c

そこで、老中首座の水野忠邦は「天保の改革」に着手する。

三方領地令の撤回」で幕府の威厳復活を目論む一方、徹底した倹約令を実施。農民達の楽しみであった行事イベントを禁止し、エンターテイメントや出版物にも制限をかけた。

そして物価上昇を食い止めるために、株仲間の解散を強行する。

ところが目論見は見事に外れ、改革は頓挫してしまった。

一揆

一向に良くならない景気に理不尽を強いられる生活に、怒り心頭だったのは「民衆」だった。彼らの怒りを証明しているのは、江戸末期に急激に増加した一揆にある。

一揆は江戸幕府が開かれた当初から発生していたが、多くても年間50件止まりだった。

ところが1830年代に入ると、年間100件近い数の一揆が発生する。天保の飢饉で人々の生活は困窮を極めていたために一揆が多発したが、世直しを理由とした一揆も起きている。

1836年に発生した「甲斐国郡内騒動」や「三河国加茂郡の一揆」が良い例だろう。

1830年以前にも民衆が立ち上がり、お上に嚙みついたことがあった。1823年には大阪の村々が集まり問屋を訴えたのである。目的は綿花の自由販売だが、民衆の声が大きいものになった何よりの証拠である。

1866年には「世直し一揆」が勃発する。

既に明治維新は敢行されており海外貿易が遠因であるため、維新と繋げるのは強引な部分はあるうだろう。ただ「民衆の不満が抑えられないところまで来ていたという事実」は無視できない。

黒船来航がなくても江戸時代は終焉を迎えていた

画像:黒船

ペリー来航や外国籍船の来航は、明治維新までの期間を早めただけに過ぎない。

黒船来航がなくとも幕府は滅亡へと歩んでいたからだ。民衆の不満は爆発し、各地で内乱が起きていただろう。

明治維新は長州や薩摩藩の志士ではなく、虐げられていた人々が中心となって進められたかもしれない。

※参考文献
講談社 井上勝生著「開国と幕末変革 日本の歴史18」
講談社 鬼頭宏著「文明としての江戸システム 日本の歴史19」

 

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