江戸時代

家康・秀忠を三河時代から支えた側近・酒井忠世

酒井忠世とは

画像 : 酒井忠世の肖像 public domain

酒井忠世(さかいただよ)とは、二代将軍・秀忠土井利勝青山忠俊と共に最側近として幕閣を支え、幕藩体制の基礎作りに尽力した人物である。

徳川四天王・酒井忠次とは遠縁にあたる家で、祖父は徳川家康の初陣に付き従った譜代家臣・酒井正親(さかいまさちか)である。忠世は正親の次男・酒井重忠(さかいしげただ)の長男として三河に生まれた。

しかし、忠世は晩年に三代将軍・家光が留守の間に火災が起こった責任を問われ、幕政の表舞台から失脚してしまう。

今回は、家康・秀忠を三河時代から支えた側近・酒井忠世の生涯について解説する。

出自

酒井家は色々な系統があり、「どうする家康」で家康にずけずけ意見する酒井忠次(演 大森南朋)は酒井左衛門慰家で、酒井忠世の家は雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていた。

忠世の祖父に当たる酒井正親は、家康の初陣に付き従った譜代家臣だった。その次男である父・重忠は、姉川の戦いなど主要な合戦で家康に付き従い武功を挙げている。

画像 : 酒井重忠の肖像 public domain

父・重忠は、家康の三大危機とされる伊賀越えの際には本国の留守居役であった。家康たちが伊勢国まで逃れてきた時、白子で家康一行を船で出迎えて安全を確保した。その時、船に立てていた船印を馬印にしたという。

重忠は関ヶ原の戦いでは家康の本陣で戦い、その武功で上野国厠橋3万3,000石を与えられ、徳川を代表する譜代大名の1人となった。

忠世は元亀3年(1572年)重忠の長男として三河国に生まれ、家康に仕えて順調に出世し、父とは別に川越領に5,000石を与えられた。

10代後半で秀忠の付き家老として上杉征伐や第二次上田合戦に従軍し、慶長6年(1601年)に上野国那波郡に1万石を与えられて大名の仲間入りを果たす。

筆頭年寄(老中)

画像 : 徳川秀忠像(徳川記念財団蔵)wiki c

秀忠は、7歳年上の忠世をとても信頼していたという。

慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠は、忠世を秀忠付きの筆頭家老(老中)とし、在京料として5,000石を加増した。
しかし、政治の中心は駿府で大御所政治を行なう家康だった。

忠世は、家康が駿府に移ったことを祝ったことで、雅楽頭(うたのかみ)に任じられた。

雅楽頭とは、朝廷の雅楽寮(うたりょう)という役所のトップのことであり、文字通り朝廷で音楽(雅楽)を担当する役所だが、忠世は実は楽器には疎かったという。任じられた理由はおそらく、忠世の先祖が「雅楽助」と名乗っていたためと考えられている。

大坂の陣では秀忠の旗本を務め、元和2年(1616年)に3万2,000石加増された。翌年に父・重忠の遺領3万3,000石を継ぎ、その後も加増され、元和8年(1622年)12月には合計12万2,500石余りとなった。

譜代大名としてはかなりの領地を与えられ、力で諸大名を押さえる武断政治を確立し、土井利勝と青山忠俊と共に3人で秀忠の治世を支えた。

家光付きの家老・年寄衆

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)wiki c

元和9年(1623年)秀忠の嫡子である家光が世継ぎに確定すると、死没していた内藤清次の席を埋める形で、従弟の酒井忠勝と共に家光付きの年寄に加わることになる。

空いた秀忠付きの年寄は、井上正就永井尚政が埋めた。

同年6月、家光は秀忠と共に上洛し、7月27日に将軍宣下を受け、3代将軍・家光として正式に就任した。

家光を心配した秀忠は、自分の最側近の忠世・土井利勝・井上忠俊を家光に付け、傅役(相談役)とした。
忠世は大老や老中首座など幕閣の要職を任されたが、家光は徐々に幕閣の若返りを図りたいと考えるようになっていった。

家光にとっては「父親が付けた口うるさい年寄」という感じだったのかもしれない。特に井上忠俊は家光に度々諫言をして嫌われたという。

西の丸留守居役となるも、火災が起こる

寛永9月(1632年)5月、忠世は西の丸留守居役となり、江戸城大橋外から家臣たちを引き連れ、亡くなった2代将軍・秀忠の屋敷であった江戸城西の丸に入った。

画像 : 『江戸図屏風』に描かれている西ノ丸御殿 public domain

これは、とても名誉な役職だった。

しかし、同年7月に家光が増上寺に詣でた際に、忠世は中風を引き起こして倒れ、家光から養生を命じられた。

忠世は一命を取り留めて再び幕政に復帰したが、寛永11年(1634年)6月、家光が30万もの大軍を率いて上洛した後に、なんと西の丸で火災が起こり建物が焼失してしまったのである。

その後、忠世は家光の命で寛永寺に退去し、その責任を取る形で謹慎処分となり政治の表舞台から失脚した。

幸い御三家からの赦免要請もあったために赦されて、翌年の2月に家光に拝謁して西の丸留守居役に復職となったが、老中職に戻ることはなかった。

寛永13年(1636年)3月、忠世は大老に任じられたが、その後すぐに没した。(享年65)

おわりに

家光が、復職した酒井忠世に老中職をさせなかったのは、その時62~63歳になっていた忠世の体を心配したという説もある。

家康・秀忠と戦国の世を徳川家のために尽くし、自分の傅役として頑張ってくれたご褒美として最期に忠世を大老に就任させたとも言われている。

参考文献:「朝日日本歴史人物事典」ほか

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 8月 19日 8:44pm

    歴史上の人物の記事でいちいちドラマの芸能人名を書くのが流行っているのでしょうか。
    (草の実堂さんに限った事ではありませんが)
    事務所からお金を貰っている等、金銭関係があるのなら商売上仕方ないと思いますが、そうでないなら芸能人情報は興醒めするだけなので要らないと思います。

    0
    0
    • アバター
      • 草の実堂編集部
      • 2023年 8月 20日 3:25pm

      コメントありがとうございます。
      「どうする家康」など大河ドラマの放送中では、ドラマを見てサイトに来る方が非常に多く
      歴史に詳しくない方も多いですので、そういった方たちのために放送に関連する記事に関しては(演: ◯◯)と書くようにしております。
      ドラマをきっかけに歴史好きになる方も多いので、いわば歴史初心者の方のためです。
      他サイトも同様かと思います。上級者の方にとっては少し煩わしいかもしれませんが何卒ご了承くださいませ。

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      0
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