はじめに
日本において身分の差が顕著になったのは、弥生時代に人々の生活が狩猟から農耕中心に変わった頃だと言われている。
それ以降、古墳時代には畿内で権力を持つ豪族による連立政権が成立し、これが朝廷となった。その首長が大王(おおきみ)、つまり天皇である。
大化の改新を経て朝廷は律令制度を整備し、地方に国司を配置して中央集権化を進めた。地方の国司の子孫が武力団を形成し、これが武士の始まりとなる。その後、源頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府を開き、政治と軍事の実権を握るに至った。
本記事では戦国時代の身分構成を「天皇・公家」「将軍・大名」「国人・地侍」「名主・農民」「商人・職人」「僧侶・神官」の6つに分け、それぞれの役割や社会的立ち位置を探っていく。
天皇と公家
古墳時代以降、日本の身分構成の頂点に君臨していたのが天皇である。
古代の天皇は権力と権威を兼ね備えていたが、平安時代の末期になると武士が台頭し、天皇の政治的権力は低下した。
しかし、改元や勅願寺の指定、綸旨の発給、大名への官位授与などの権限は依然として天皇が持っており、一定の権威を保持していた。
戦国時代においても天皇の権威は失われることはなく、織田信長は、実質的な天下人となってからも天皇から権力を委譲されているという形を取り、その意志を継いだ豊臣秀吉も関白の職を得ることで、自身の政権が正当であることを誇示した。
公家は天皇・皇族に仕える上級貴族である。
公家という言葉は元々は天皇や朝廷自体を指すものだが、武士が台頭してきた鎌倉時代あたりから上級貴族を指す言葉に変わった。
しかし、天皇の権力低下と共に公家の力も衰え、戦国時代には生活に困窮する者が多くなった。それは公家が地方に所有していた荘園が武士に押領されて、収入源が激減したためだ。
そのため、駿河の今川氏や周防の大内氏といった有力な戦国大名を頼って、都落ちする公家も少なくなかった。
しかし、公家が地方に身を寄せたことによって京文化が全国各地に広まったという。
将軍と大名
将軍とは、正式には征夷大将軍のことである。
もともとは蝦夷(えみし)と呼ばれる東北地方の反乱を鎮圧するための官職であったが、鎌倉時代以降は幕府の最高権力者を指すようになった。
しかし室町幕府が弱体化し、将軍家の足利氏の力が衰えると、織田信長が元亀4年(1573年)に15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡した。
徳川家康が慶長8年(1603年)に征夷大将軍となるが、家康が江戸幕府を開くまでの30年間は、征夷大将軍の官職を持つ人物が不在だった。
鎌倉幕府と室町幕府は、地方に軍事権・警察権を持つ守護と地頭を置いて、各地の治安維持と警備を任せた。
だが、室町時代後半になると天皇・公家の弱体化と共に各地の守護や守護代が力をつけ、公家の荘園を押領するようになり、各地の実質的な領主となったことから守護大名と呼ばれるようになった。
守護大名は領土の拡大に幕府の権威を利用していたが、室町幕府が弱体化すると幕府に頼ることなく独立する者も現れた。
彼らは戦国大名と呼ばれ、荘園制度を否定し、自ら検地を行い、独自に分国法を制定して自国の統治を行ったのである。
国人と地侍
将軍や大名の配下には国人が存在し、その下には地侍が位置していた。
国人は、鎌倉幕府時代の地頭や荘官を祖とする小領主で、国衆とも呼ばれていた。室町時代後半になると、守護が大名化する中で、国人の中にはそのまま守護大名の家臣となる者もいれば、家臣になることを拒んで自立のために一揆を起こす者もいた。
一方、地侍は平時には農業に従事し、戦時には国人に従って戦に赴く、半農半士の生活をしていた人々である。
国人と地侍は直接的な主従関係にあったわけではないが、「寄親・寄子制(よりおや・よりこせい)」と呼ばれる柔軟な主従関係で結ばれていた。
この制度において、寄子は与力、つまり加勢を意味し、戦時のみ寄親である国人の指揮のもとで行動したのである。
名主と農民
名主は村落の指導者であり、名字を名乗ることが許された。
戦国時代の村落は「惣(そう)」と呼ばれる自治組織によって守られ、名主はその中心的な存在であった。多くの名主は地侍でもあり、戦時には国人に従って合戦にも参加した。
名主の下には農民が位置し、自らの畑で生活を賄う自作農と、名主らの畑の小作を請け負う小作農がいた。
農民は惣に参加できたが、屋敷を持たない脇百姓と呼ばれる農民は、惣に参加することが許されなかった。
商人と職人
戦国時代、商人は主に定期市で商売をし、「振売(ふりうり)」と呼ばれる、店を構えずに商品を手や肩にかけて売り歩く形態が一般的だった。
商人は食材、日用品、工芸品など様々な商品を販売し、情報源としても重用された。
一方、職人は高度な技術を要する商品を作り、刀鍛冶や大工などが戦国時代の領国運営において重要な役割を果たした。
僧侶と神官
僧侶は仏教の出家修行者であり、僧正、僧都、律師などの職階が存在した。
神官は神道において神事を執り行う役割を担い、宮司や禰宜といった職階があった。
戦国時代、有力な寺院や神社は大名と対立するほどの兵力を持っていた。特に仏教の天台宗、真言宗、浄土真宗は激しく大名と対立した。
元亀2年(1571年)織田信長は、天台宗の総本山の比叡山延暦寺との対立から、焼き討ちを行なっている。
また、大坂石山本願寺を始めとした一向宗にはかなり手を焼いた。
その一方で、禅宗は大名の参謀のような役割を果たし、子弟の教育や指導に携わった。
おわりに
戦国時代は、天皇を中心としたピラミッド型の身分構成が存在しながらも、下剋上の世界で身分の差は流動的であった。
国人や地侍から大名に上り詰める者もいれば、都落ちする公家もいた。また、豊臣秀吉のように農民出身ながら天下人となった例もある。
混乱の時代を経て武士は特権を持ち、農民や町人には厳しい規制が課された。こうして武士の権力が強化され、社会格差が広がっていったのである。
参考文献:『戦国 戦の作法』『戦国10大合戦の謎』他
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