ゲイ(gay)とは、男性の同性愛を指すことばだ。
近年では男性同士のカップルがウェディングセレモニーを行ったり、パートナーシップ証明書を取得したりする様子が各種メディアで見られるようになった。
地上波でも、「きのう何食べた?」や「弟の夫」といったゲイを主題にした漫画の実写化や、「おっさんずラブ」といったコメディ面を強調とした同性愛ドラマもが放映されるようになった。
男性同性愛は、今日に至るまでどのような歴史を残してきたのだろうか、辿ってみよう。
呼称にまつわる暗い歴史
「ホモ」の呼称は当事者にとって嫌悪感を催すものであるケースが少なくない。なぜか?それは同性愛に対する差別・偏見・嘲笑と「ホモ」の呼び名が紐づいているからだ。
学校でも社会でも、フェミニンさを感じさせる男子は「ホモかよ」と笑われ、男同士で仲良くしていると「男は女を好きであるのが自然であり当然」という異性愛中心主義の目で否定されてきた。
それが悪意のない思春期の戯れや異性愛男性の素朴な感情表現であっても、異常者、変人、淫らな存在、として好奇の目を向けられ傷ついた彼らの歴史は長い。
特に、世界のゲイを見渡すと、地域によっては未だに性的指向ゆえにヘイト・ホモフォビア(同性愛嫌悪)の対象とされていることが分かる。何も悪事を働いていないにもかかわらず、精神的肉体的暴力の的となり、社会的制裁を加えられたり(制裁と呼ぶことが正しいとは思えない状況で)、最悪、死を強いられることすらある。
なので、少しでも当事者を理解しよう、ちゃんと扱おう、と考えるのであれば「ホモ」「オカマ」「そっち系」(手のひらを外向きで頬に添える仕草を添えて)などという呼称は禁忌だ。令和を生きる常識人であれば、「ゲイ」もしくは、さほど一般的ではないが正式な「ホモセクシュアル」と呼ぶのが正しい。
呼称を自己肯定に
当事者の中には自ら「ホモ」と名乗っていくスタンスの人もいるが、これはその人が納得の上で使用しているだけであり、間違っても非当事者から言っていくべきではない。アフリカ系アメリカ人が仲間内で「ニガー」と呼び合うことはあっても非黒人が言うことは許されない、それと同じことだ。あくまで、ゲイと呼ぼう。
ちなみに、このゲイという単語はもともと、同性愛を意味するものではなかった。本来「快活な、陽気な、賑やかな」という意味を持つこの語は、どのようにして今日のような意味合いを持つに至ったのだろうか。
歴史の中で、gayという語のもつ享楽的なイメージが「不品行」というニュアンスを帯びるようになっていたのは17世紀頃のこと。この時代には、gay=異性を相手とする売春婦・女たらしを意味するようになった。
この、「まともではない性行動」という意味合いから派生した後、社会においては19世紀から20世紀終盤頃にかけて、現代のような「ホモセクシュアル」の意味が定着するようになった。
また、それに至るまでには、男性同性愛者たちが自己肯定の想いやプライドをこめて使っていたことも大きく作用していた。弾圧や偏見にくじけず「私たちのライフスタイルは賑やかで快いもの」と叫ぶようになった。
古来より続くホモセクシュアリティ
人類は、古くから同性愛行動を行っていた。
紀元前25~24世紀、エジプト第五王朝時代にカーヌムホテップとニアンカーカーヌムという男性の墓が作られ、彼らは同性愛関係にあったとする説が存在する。
古代ギリシャにおいては年長者と少年との性愛は好ましいものとして公になっていた。
そのさまはプラトンの著作の中に多く描かれており、例えば現在「精神的な愛」と解釈されている「プラトニック」とは、「プラトン的な」という意味であり、男性同士の師弟愛つまり同性愛がベースとなった単語である。
紀元前378年にテーバイで結成された神聖隊(ヒエロス・ロコス)は、150組の同性愛カップルのみで編成した歩兵部隊であり、総勢300人は各々の愛に燃えながらスパルタ軍を打ち破った。
このようなギリシャから生まれたギリシャ神話にも、同性愛の神々が存在している。
紀元前54年にローマ皇帝となったネロは、男性と結婚をし、皇后と同様の立場を与えた。
このように、紀元後300年頃まで同性愛は人間として普通のものとされていた。
しかしキリスト教の広がりに伴い、342年、皇帝コンスタンティウス2世とコンスタンス1世によって同性結婚を禁止する法令が発布され、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が世界に広がっていった。
日本においての歴史
日本では、奈良・平安時代に仏僧と稚児のあいだで行われていた男色にはじまり、平安時代には公家、室町には武士、戦国時代には大名らが盛んに同性間の性愛が行われていた。むろん、これは公然に行われて(むしろ奨励されて)いた。当時来日したキリスト教宣教師たちの驚きは文献に残されている。
日本の文化が最高峰まで盛り上がった江戸時代前期には、鎌倉~室町に盛り上がった男色が「衆道」として確立された。そのほか、別系統の「陰間」が町人の間で流行した。
これはいわゆるゲイ風俗、売り専であるが、現代のそれと大きく異なるのは、陰間は京、大阪、江戸などの遊郭で大っぴらに行われており、決して「同性愛者専用」のコソコソとしたサービスではなかったことだ。
江戸も中後期となると、あまりにも男色関係がヒートアップしすぎたために富貴を乱すとして、取り締まりがされるようになった。ただしこれはあくまでアイドルの恋愛禁止のようなものであり、同性愛自体が不道徳とみなされたわけではない。その証拠に、『葉隠』や『東海道中膝栗毛』などの超有名な本で同性愛関係をはっきりと描いても、それが取り締まられることはなかった。
このように同性愛を謳歌してきた日本だが、文明開化の頃から「同性愛=罪」とするキリスト教的価値観や、同性愛を性的倒錯と分類した西欧の精神医学が流入し、事態は大きく変化していった。
開国して来日した西洋人は、それまで日本人が豊かに育んできた男色の歴史をひたすら否定し、どのような関係性も一緒くたに「sodomy」、神の炎に焼かれるべき罪深き背徳と呼んだ。
その後、明治5年にア◯ルセックスを罰する「鶏姦罪」が設けられ、90日~10年の懲役が科された。これは明治15年には消滅した規定であり、日本で同性間性交が刑事罰の対象となった唯一の期間でもある。
何故こうもあっさり廃止になったのか。それは、元々男色自体を否定するために制定されたのではなかったからだ。単に、「入れ込みすぎ」ていた学生達をどうにか抑える必要があったため、やむなく罰則化されたのだ。
その後、西洋人から批判され、男色に対する扱いは変わりはしたものの、さまざまな形で同性愛は今日まで受け継がれてきたのである。
ゲイの歴史は古くそして深い
男性同性愛の歴史は深いことがおわかりいただけただろうか。
「最近はLGBTが多くなって少子高齢化が進む」とつぶやかれるご年配の方に対し、密かに「ゲイは古来から自然に存在してた。私たちだって子供はほしい」と思っている当事者の声が聞こえてきそうだ。
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