佐久間盛政とは
猛将・柴田勝家の甥で「鬼玄蕃(おにげんば)」と異名が付けられた無類の強さを誇った武将が佐久間盛政(さくまもりまさ)である。
織田信長に仕え、柴田勝家の与力として戦場を駆け抜け、豊臣秀吉から「肥後一国をやるから家臣にならないか」という申し出を断り最期を迎える。
戦国時代を太く・短く・濃く・武士としての誇りを貫いた佐久間盛政について追っていく。
生い立ち
佐久間盛政(さくまもりまさ)は天文23年(1554年)織田信長の家臣・佐久間盛次の嫡男として尾張国(現在の愛知県名古屋市)で生まれる。
父・盛次は信長の重臣・佐久間信盛の従兄弟で同族であった。
母は後の織田家の筆頭家老となる柴田勝家の姉で、盛政は勝家の甥である。
信長家臣団の中でも、織田家の中核を担う重臣一族の嫡男と生まれながらのエリートとして育つ。
父・盛次は盛政が幼少の時に亡くなったために叔父の勝家を父と慕い、柴田家との結び付きが強く、盛政の弟・勝政は勝家の養子に入っている。
戦に明け暮れる
柴田勝家は秀でた武勇から「鬼の権六」「鬼柴田」「かかれ柴田」と恐れられた猛将である。
そんな叔父から鍛え上げられた盛政は永禄11年(1568年)15歳の時、六角氏との観音寺の戦いで初陣を飾る。
当時の信長は「天下布武」を掲げて畿内平定に乗り出した頃で、六角氏とのこの戦いはその節目の戦いとなるものである。
その後も越前手筒山城攻め、野洲河原の戦い、槇島城の戦いなどに参加して数々の武功を挙げる。
天正3年(1575年)叔父・勝家が信長から越前49万石を与えられると、盛政は前田利家・佐々成政らと共に与力となった。
この当時の与力は主君の下で、ある程度の力を持った武将に加勢をするように言いつけられた武将のことである。
一向一揆との戦い
盛政は勝家家臣団の先鋒として北陸の一向一揆と戦うことになった。
北陸の一向一揆は戦国大名を滅ぼすほどの力を持っており、勝家軍は苦戦を強いられる。
この一揆勢の中でも山内衆は鉄砲の扱いに長け特に強力だったが、盛政は鳥越城の戦いでこれを打ち破り、信長から感状を賜っている。
天正4年(1576年)加賀一向一揆に奪取された大聖寺の救援に成功し、天正5年(1577年)信長の命で加賀に派遣され、上杉謙信の侵攻に砦を築いて戦う。
天正8年(1580年)11月、盛政は加賀一向一揆の最後の拠点である尾山御坊を攻め、これを陥落させる。
この活躍で信長から加賀国の半分と尾山御坊を与えられ、盛政は尾山御坊を金沢城として初代城主となる。
鬼玄蕃
尾山御坊を攻める前の8月に、一族で信長の重臣・佐久間信盛 が、石山本願寺を攻めきれず信長の怒りを買い、高野山に追放されている。
一族の過失ということで、盛政は自ら蟄居を選び謹慎した。
誰に言われた訳ではないこともあり蟄居はすぐに解かれるが、信長への忠義を示した行動ではないかと考えられる。
天正9年(1581年)勝家の留守を狙った上杉景勝が加賀に侵攻してきたが、盛政は上杉軍と戦いこれを破る。
天正10年(1582年)3月、盛政は第三次鳥越城の戦いで、加賀一向一揆を壊滅させた。
このような数々の戦での活躍で、いつしか盛政は「鬼玄蕃(おにげんば)」という異名を取るようになった。
玄蕃とは当時の盛政の役職「玄蕃允(げんばのしょう)」から取ったとされている。
盛政は身長が六尺(約182cm)を超える体格の持ち主で、前田利家(約182cm)と同じく戦場では鬼のように見えたのかもしれない。
また、叔父の勝家の異名「鬼柴田」から取ったのだろうとされている。
その活躍で信長から感状を賜っているが、この感状は当時ものすごく名誉なもので、家臣に対してその武功を称える能力の証明書のようなものだった。
お家に何かあった際、再仕官をする時には有利となる信長のお墨付きという文書である。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月、勝家と共に上杉方の松倉城を攻めている時に、明智光秀による本能寺の変を知る。
この時、柴田勝家は上杉勢と対峙中で越中におり、信長の仇を討つために明智打倒に向かおうとするが、「村井頼重覚書」によるとそれを盛政が制止したとされる。だがこの説は疑わしいとも言われている(近年の研究によると、2018年に本能寺の変から8日後の柴田勝家直筆の書状が発見され、それによると勝家は光秀の居場所を正確に把握できておらず、光秀討伐に遅れをとった要因の一つとされている ※参考URL https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37920620Z11C18A1CR0000/)
結局、勝家軍はそこに留まることになり、その間に中国大返しをした羽柴(豊臣)秀吉が山崎の合戦で明智軍を打ち破る。
明智を倒した秀吉の発言権は織田家中で高まり、信長の後継を決める清洲会議で勝家と秀吉は対立する。
そして勝家が推す信長三男・信孝ではなく、秀吉が推した信長の孫・三法子が後継者となり、秀吉が実権を握る形となった。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い
勝家・秀吉の対立は深まり、両者は天正11年(1583年)近江の余呉湖畔(現在の滋賀県長浜市)付近で対峙する。(賤ヶ岳の戦い)
膠着状態の中、盛政の陣に勝家の養子で秀吉に寝返った柴田勝豊の家臣が駆け込み「秀吉は今ここへはいない、美濃へ移っている」と告げる。
秀吉が本隊を美濃へと移していることを知った盛政は勝家にそのことを告げ、秀吉軍の中川清秀の砦を急襲することを提案する。
勝家はその提案を当初反対するが「砦を落としたらすぐに戻ること」を約束に承諾した。
盛政はあっという間に砦を陥落させて賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利する。
まさに「鬼玄蕃ここにあり」という戦果を挙げるが、この後、勝家との約束を破ってしまう。
盛政はこの勝利を足がかりに羽柴秀長の陣を討ち取ろうと準備を進めて、前線に部隊を置き続けていたのだ。
そして、賤ヶ岳砦を守る秀吉軍の桑山重晴に「降伏して砦を明け渡せ」と告げる。
それに対して桑山は「抵抗はしないから日没後まで待って欲しい」と返答する。
盛政は返答どおり待っていたが、琵琶湖を船で渡って来た秀吉軍の丹羽長秀が現れて桑山隊と合流したために、賤ヶ岳砦の確保に失敗してしまった。
そして秀吉はかねてからこのような事態になることを予想し、美濃からの距離約13里(約52km)をたった5時間で走り抜けて来た。しかも援軍を増やしてである。(美濃大返し)
勝家との連絡も取れなくなった盛政に、さらに予想外のことが起きる。
勝家の与力として一緒に布陣していた前田利家が突如として撤退してしまうのだ。
利家は勝家の与力であったが、秀吉の親友でもあり、秀吉から寝返るように何度も誘いを受けていた。
利家はその葛藤に答えを出せずに兵を引いてしまった。
これによって盛政軍は敵中に孤立してしまい、秀吉の大軍を相手に孤軍奮闘するも撃破されてしまう。
盛政は何とか戦場から落ち延び、再起を図ろうと加賀国に逃げるが、山中で郷民に捕らえられてしまった。
これによって秀吉軍は勢いに乗り、勝家軍は敗走して居城の北ノ庄城に戻る。秀吉軍は北ノ庄城を囲み勝家はお市の方と共に自害した。
武士の誇り
郷民に捕らえられた盛政は、「秀吉に対面したいので、自分を秀吉の元まで連れて行ってくれ」と頼んだ。
引き渡された時に旧知の武将・浅野長政は「鬼玄蕃ともあろう人が負けたというのに何故自害しない」と愚弄した。
盛政は「源頼朝公もかつて大庭景親に敗れた時には木の穴に隠れて逃げ延び、後に大事を成したのだ」と言い返し、周囲を唸らせたという。
盛政の能力を惜しんだ秀吉は、対面した盛政に「九州を平定した後に肥後一国をやるから臣下になれ」と誘った。
しかし、盛政は秀吉に感謝しながらも「もし生きていたとしても秀吉様の顔を見ればきっと私は秀吉様を殺してしまう、ならばいっそ死罪にして欲しい」と懇願する。
しかも「切腹ではなく、縛り上げて車に乗せて京の市中を引き回して打ち首にしてください、そうすれば秀吉様の威光も天下に響き渡る」と付け加えた。
秀吉はその願いを聞き入れて、小袖二重を贈る。
すると盛政は紋柄と仕立てが気に入らず「死に衣装は思いきり目立つものが良い、あれこそ盛政だと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に、裏には紅梅をあしらった小袖を所望した。
秀吉は大変感心し「最後まで武辺の心を忘れぬ者だ」と言って希望の小袖2組を与えた。
その小袖を身に付けた盛政は望み通り市中を引き回され、世に聞こえた鬼玄蕃を一目見ようと大勢の人が見物に詰めかけたという。
秀吉は盛政をせめて武士らしく死なせてやろうと、部下に命じて密かに短刀を渡して切腹させようとした。
しかし、盛政はそれも丁寧に断り、槙島に連行され斬首された。
享年30歳、鬼玄蕃こと佐久間盛政の短い人生であった。
おわりに
豊臣秀吉は九州平定後に肥後一国を、佐久間盛政と同じ柴田勝家の与力だった佐々成政に与える。
肥後は加賀に負けないほどの一向宗の強い国であった。豊臣秀吉はおよそ100年にも及んだ一向一揆を壊滅させた佐久間盛政の力量を、本当に欲しかったのではないか。
後に、一揆を防ぐことが出来なかった佐々成政は、豊臣秀吉の命で切腹させられている。
登用→切腹→小袖と秀吉の好意を悉く跳ね除けたのは盛政の意地だったのでしょうね。
戦国時代の勇士らしい男の意気地を貫いた最期は見事ですが、賤ケ岳で勝家の命令守っていればねえ・・・
賤ヶ岳の戦いの柴田方の敗因
https://rekan.jp/674/
佐久間盛政の奇襲成功に合わせて柴田勝家が動いていれば勝てましたよ。そもそも柴田勝家から命令あったとかその命令を佐久間盛政が無視したとかって当時の信頼できる史料には載っていないのです。
佐久間盛政の大河ドラマみたいわ!