ねね(高台院)とは
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げることが出来たのは、妻である北政所(きたのまんどころ)「ねね」が、そばにいたからだと言っても過言ではない。
色々な交渉や人事について秀吉の最も信頼のおける相談相手であっただけでなく、戦地に赴いている間の留守を安心して任せておける「ねね」の存在は、秀吉の天下統一に大きな影響を及ぼした。
今回は天下人豊臣秀吉を支えた北政所「ねね」について迫る。
ねねの出自
北政所・ねねは、尾張国朝日村(現在の愛知県清洲市)の杉原定利の次女として生まれる。
生年については諸説あり天文17年(1547年)とされている。
生まれてすぐ母・朝日殿の妹・七曲殿が妻として嫁いだ浅野長勝の養女となり、浅野家の娘となった。
一般的な名前は「ねね」とされているが、夫・豊臣秀吉や高台院(こうだいいん=ねねの法名)の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があり「おね」と呼ばれることも多い。
近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記したものが確認されており、再び「ねね」説が浮上する。
ここでは「ねね」「北政所」「高台院」と記させていただく。
兄妹は姉・くま、兄・木下家定、妹・ややで、「ねね」と「やや」は浅野家の養女になっている。
秀吉と恋愛結婚
永禄4年(1561年)8月、「ねね」14歳の時に織田信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉、当時25歳)と、この時代では珍しい恋愛結婚をした。
祝言は浅野家で行ったが、実母・朝日殿はこの結婚に最後まで反対であったという。それは藤吉郎の身分が浅野家よりも下だったからだ。
一説によると、信長が鷹狩りの帰りに浅野家の屋敷に立ち寄った時、「ねね」が茶を出して良い娘だと感じた信長が「藤吉郎、この娘を妻にせよ」と命じたという説もある。
藤吉郎は、信長の家臣になる前に仕えていた浜松頭陀寺城主・松下之綱の家臣の娘「おきく」という女性と、一度結婚をしたとも言われている。
藤吉郎が尾張に行く時に離縁したとされていて、実母・朝日殿が結婚に反対した理由の一つとされている。
ねねは藤吉郎の母・なか(後の大政所)とは結婚当初から同じ家に住み、実の母娘のように仲が良かったという。
信長の家臣・前田利家の正室「まつ」と同年代で、藤吉郎との結婚前から親しい間柄であった。
しかし、仲が良かった藤吉郎と「ねね」の間には子供が生まれなかった。
戦国武将たちの母代わり
藤吉郎は出世して羽柴秀吉と名を改める、ここから藤吉郎を秀吉と記させていただく。
秀吉は農民の出であり家代々の家臣や家来はいなかったので、自分の弟や姉、妹の主人、「ねね」の兄とその子供たち、「ねね」の妹・ややの浅野家の子供たちを自分の傘下に置いた。
また、秀吉の母・なかの親戚で従弟や又従弟にあたる、加藤清正や福島正則らを少年の頃から預かっていた。
もちろん世話をするのは「ねね」であり、ご飯を作って食べさす、着物を作る、喧嘩やいたずらを叱るのも「ねね」であり、我が子同然のように可愛がった。人質であった黒田官兵衛の嫡男・黒田長政の世話も「ねね」がしていたという。
秀吉が長浜城主となると、長く城を開ける夫の代わりに、ねねが城主を代行するような形となった。
長浜城主時代から秀吉は側室を設けるようになり、浮気する秀吉に悩む「ねね」に、信長が激励の書状を送っている。
主君・信長にそこまで気遣いをさせるほど、「ねね」は信長にも一目置かれた存在であったのだ。
本能寺の変
本能寺の変の時、秀吉は毛利討伐のために中国地方に遠征しており、備中高松城にいた。
長浜城にいた「ねね」は危険を察知して、一族を長浜城から伊吹山麓の大吉寺に避難させた。
それで明智勢の京極高次や阿閉貞征らが長浜城を占領した際に、難を逃れることが出来た。
秀吉が山崎の戦いで明智光秀を打ち破ると、京極・阿閉勢も長浜城から逃亡したために無事に秀吉と再会した。
北政所
その後、秀吉は次々と勢力を拡大し天下人へとなっていく。
ねねは秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)秀吉が関白に任官したことに伴い、「ねね」は従三位に叙せられ「北政所」の称号を許される。
この時代の北政所は、摂政または関白の正室のみに贈られる称号であるが、「ねね」が北政所となって以来は「ねね」を指す固有名詞として定着している。
摂政・関白の生母に贈られる称号は「大北政所」略して「大政所」といって、これも秀吉の生母・なかに贈られてからは、なかを指す固有名詞となっている。
ここからは「ねね」を「北政所」と記させていただく。
北政所は天下人秀吉の正室として朝廷との交渉役を一手に引き受けたほか、徳川秀忠など人質として集められた諸大名の妻子の世話をする役目を担った。
天正16年(1588年)後陽成天皇は聚楽第に行幸。所持万端を整えた北政所はその功で従一位に叙せられた。
北政所は、豊臣政権において大きな発言力と高い政治力を持つようになり、諸大名が大坂城に訪れた時には北政所にも挨拶に来るようになったという。
この頃、秀吉はお市の方の長女・茶々(淀殿)を側室に迎えている。
淀殿は天正17年(1589年)に捨(鶴松)を生むも捨は天正19年(1591年)に死亡。文禄2年(1593年)に拾(豊臣秀頼)を生んだ。
秀吉が留守となった小田原征伐の時には、朝廷がお見舞いと称して北政所に大量の贈り物をしていることから、合戦に出ている間の豊臣家の政務は北政所が取り仕切っていたと思われる。
天正20年(1592年)北政所は秀吉から河内国内に1万5,000石以上の領地を与えられた。
朝鮮出兵の時には大坂から九州・名護屋への通行許可として、北政所が黒印状を発給していた。
高台院
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。
武断派の七将が石田三成を襲撃した時には、徳川家康は北政所に仲裁を依頼し、その中立的な采配は高く評価された。
慶長4年(1599年)北政所は大坂城から京都新城へ移り秀吉の供養に専心したが、関ヶ原の戦いの前に京都新城は櫓や塀を破却されて縮小された。
北政所は関ヶ原の戦いの前に、福島正則ら子飼いの大名たちに東軍につくようにと根回しをしたという。
甥の小早川秀秋が、後に西軍から東軍に寝返る一つの要因ともなった。
関ヶ原の戦いの後も京都新城跡の屋敷に住み、秀吉の供養に専心し、家康から養老料として微増されて1万6,346石余になった。
慶長8年(1603年)秀吉の遺言であった秀頼と2代将軍・徳川秀忠の娘・千姫の婚儀を見届け、朝廷から院号を賜り、はじめは高台院快陽心尼、後に高台院湖月心尼と称した。
ここからは「ねね」を「高台院」と記させていただく。
慶長10年(1605年)秀吉と実母・朝日殿の冥福を祈るために、家康の支援を受けて京都の東山に高台寺を建立し門前に屋敷を構えた。
高台院は大坂の陣では、秀頼に家康からの要求を受け入れるように説得しようと、大坂城へ向かおうとしていた。
しかし、高台院の影響力を恐れた家康は、高台院の甥・木下利房を監視役にして高台院の動きを封じたので、高台院は豊臣家の滅亡を見届けるしか出来なかった。
だが徳川家との関係は良好で、将軍・秀忠は高台院屋敷を訪問し、高台院主催の二条城での能興行の記録が残っている。
家康の死後、秀忠は人質時代に世話になった高台院を手厚く保護し、安堵されていた領地も1万6,923石に増やした。
寛永元年(1624年)9月6日、高台院屋敷で死去、享年については76・77・83歳などの諸説がある。
最晩年に甥・木下利房の子・木下利次を豊臣家(羽柴家)の養子として迎えていたため、遺領のうち3,000石は利次が近江国にて相続して、江戸時代も旗本として続いた。
おわりに
ルイス・フロイスは著書・日本史で、北政所・「ねね」を「王妃」もしくは「女王」と表現している。
淀殿が生んだ捨(鶴松)が死んだ時に、北政所は自分の甥で姉の息子・豊臣秀次を次の後継者と決め、関白にまで昇進させたがそこに秀頼が生まれた。
運命のいたずらなのか、秀次は切腹させられてしまう。
そのため北政所と淀殿は対立関係にあったという説があるが、近年の研究では2人はむしろ協調・連携した関係にあったという。
関ヶ原の戦いでも淀殿との対立から東軍のために動いたとするのが通説であるが、これも近年の研究では淀殿と連携して大津城の戦いでの講和交渉や戦後処理に動いてたとされている。
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