北条氏政とは
北条氏政(ほうじょううじまさ)は、北条早雲・北条氏綱・北条氏康と続いた相模国の後北条家四代目の当主である。
「武田信玄」「上杉謙信」の攻撃を跳ね返した偉大な父・氏康の跡を継ぎ、関東に覇権を確立し後北条家としては最大の領地を獲得している。
豊臣秀吉に最後まで抵抗して後北条家を滅亡させたために評価は高くないが、武田・上杉・今川・織田・徳川・豊臣といった戦国時代を代表する武将たちと覇権を競い合った北条氏政について解説する。
北条氏政の生い立ち
北条氏政は天文7年(1538年)相模国の北条家第三代当主・北条氏康の次男として生まれる。
※生年は天文10年(1541年)という説もある。
兄が16歳で亡くなったため嫡男として育ち北条新九郎氏政と名乗り、天文21年(1552年)以降に元服したとされている。
天文23年(1554年)7月、武田信玄の娘・黄梅院を正妻に迎え、この婚姻によって武田・今川・北条の「甲相駿三国同盟」が結ばれた。
二人の間には永禄5年(1562年)に嫡男・氏直が生まれている。
家督相続
永禄2年(1559年)、父・氏康は氏政に家督を譲る。
これは永禄の飢饉で疲弊した関東を救うために行った「徳政令(年貢の免除)」のための代替わりによるものである。
北条家は民意を重視しており、検地や徳政令を行うための責任を取るといった形で、代替わりという手法を用いている。
しかし父・氏康は家督を譲った後でも北条家の政治・軍事の実権を掌握し、小田原城の本丸にて「御本城様」として氏政を後見。「二御屋形」「御両殿」と呼ばれ氏康・氏政の両頭体制となった。
この時、氏政は「小田原衆所領役帳」をまとめた家臣管理や検地を行い、貨幣法というべき代物法度を改定し、精銭(良質の銭貨)と地悪銭(品質の悪い銭貨)の法定混合比率を7対3に確立するなど、民政面でも能力を発揮した。
上杉謙信との戦い
永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまい、今川家の力は徐々に衰退していった。
この年、関東で北条家に敵対する勢力が越後の上杉謙信に北条征伐を要請、それを受けた謙信は8,000の軍勢で越後から出兵し北条方の城を次々と攻略。謙信は関東一円の大名や豪族に動員をかけ、関東の諸将は次々と謙信に味方していった。
永禄4年(1561年)、上杉連合軍は10万以上の兵で上野国から武蔵国へ進撃、松山城と鎌倉が攻略されて3月下旬には北条家の居城・小田原城を包囲した。
氏康・氏政親子は小田原城での籠城戦に臨み、その期間は約1か月にも及んだ。(※1週間から10日間という説もある)
しかし小田原城の防御は堅く、上杉連合軍は兵糧がつき、一部の豪族などが勝手に陣を引き払ってしまう。
そして北条と同盟を結ぶ武田信玄が、信濃国川中島に海津城を完成させて謙信を牽制したため、謙信は小田原城から撤退する。
謙信たちを撤退させたことで小田原城での籠城戦に自信を持った氏康・氏政親子は、守りをさらに固めるために城下町全体を囲う城壁を建造した。
越後に撤退した上杉軍が第4次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、氏康・氏政親子は北関東に侵攻して奪われた領土を徐々に取り戻している。その後、北条と上杉は関東で数年間に渡って抗争を繰り返した。
永禄9年(1566年)、上杉家の家臣・北条高広(きたじょうたかひろ)が北条家に寝返ったことにより、上杉勢は関東から大幅な撤退を余儀なくされ、この頃から父・氏康は実質的にも隠居し、氏政・氏照・氏邦・氏規ら自分の息子たちに合戦を任せることが多くなった。(※北条高広は後北条氏とは別族。当時も紛らわしかったようで高広の姓は「喜多条」と呼ばれ区別されていた)
永禄10年(1567年)、里見義堯・義弘親子が上総奪還を目指して北条領に侵攻。氏政はこの時の戦で大敗して北条家は上総の南半分を失っている。
武田信玄との戦い
永禄11年(1568年)12月、信玄が駿河の今川領へ侵攻。これにより三国同盟は破棄となり北条家は今川家との関係を優先することになった。
父・氏康は信玄の駿河侵攻に大激怒し、氏政の正室・黄梅院(信玄の娘)を離縁させて子供を残したまま甲斐に送り返した。
黄梅院は傷心したためか翌年に亡くなっている。(※氏政と黄梅院の仲はとても良かったという)
氏政は掛川城に籠城していた今川氏真を救出するために三河の徳川家康と和睦。信玄に対抗するために謙信とも和睦して弟・三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子として越後に送った。(※越相同盟)
永禄12年(1569年)9月、信玄は碓氷峠を超えて関東に侵攻、小仏峠からは小山田信茂の別動隊も侵攻し、武田軍は小田原城を包囲した。
氏康・氏政親子は小田原城に籠城。しかし、4日ほどで信玄は撤退を開始したため、その帰路の途中で激戦として知られる三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)となった。
北条氏照・氏邦・綱成らは武田家重臣の浅利信種や浦野重秀らを討ち取ったが、信玄は氏康・氏政親子の北条本隊が到着する前に、甲斐へ撤退してしまう。
それ以後、信玄は兵を立て直し、蒲原城・深沢城などの駿河の諸城は武田家に奪われてしまった。
この頃、父・氏康が病に侵され、元亀2年(1571年)10月3日に57歳で亡くなった。
氏康は「謙信との同盟を破棄して信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残した。
父の死後、氏政は遺言通り謙信との同盟を破棄して再び信玄と同盟を結び、氏政は早雲寺に黄梅院を建立し、亡くなった妻の分骨を譲り受けて供養している。
元亀4年(1573年)、信玄が亡くなり武田家の家督は武田勝頼が継いだ。勝頼には氏政の妹・桂林院殿(北条夫人)が嫁いでいる。
御舘の乱
天正2年(1574年)、謙信が上野国に侵攻すると氏政も出陣して利根川で対峙となったが、この頃の謙信の関心は越中に向いており決戦には至らなかった。
閏11月、氏政は父・氏康が「一国に等しい城」とまで称した念願の関宿城(せきやどじょう)を攻め落とす。
天正3年(1575年)、下野祇園城を攻め落とし、ついに上杉の勢力を関東からほぼ一掃することとなった。
天正5年(1577年)、上総国に侵攻して宿敵・里見義弘との和睦を実現させる。
天正6年(1578年)、謙信が死去。越後では謙信の後継者を巡って氏政の弟・上杉景虎と謙信の甥・上杉景勝との間で「御館の乱(おたてのらん)」が起きる。
氏政はこの時に佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、武田勝頼に上杉景虎への援軍を依頼したが、実は勝頼は上杉景勝から大量の金品を貰って領土の割譲も約束し、密かに同盟を結んでしまっていた。
氏政はそれに激怒して武田との同盟を破棄。兄弟の中でも武勇の誉れ高い弟の氏照・氏邦を上杉景虎の援軍に向かわせた。
しかし、氏照・氏邦の援軍は坂戸城で直江兼続らの抵抗にあって撤退してしまう。
天正7年(1579年)、御館の乱は上杉景勝が勝利し、上杉景虎は自害した。
景虎の敗死を受けて、氏政は徳川家康と同盟を結んで武田勝頼に対抗した。
沼田問題
天正8年(1580年)、武田勝頼の命で真田昌幸が上野の沼田城に侵攻し、北条家は支配権を失った。
この頃、氏政は台頭してきた織田信長に臣従を申し出ている。
同年8月19日、嫡男・氏直に家督を譲って隠居したが、この隠居は父・氏康と同様に北条家の実権は掌握しており「御隠居様」と敬称されて氏直の政務の後見をした。
天正10年(1582年)2月、織田信忠を総大将にした織田の大軍が甲州征伐に乗り出すと、氏政も駿河の武田領に侵攻する。
3月11日、武田勝頼は自害して武田家は滅亡。甲斐は織田家の領地となった。
信長は滝川一益を関東管領とし関東の統治を目論み、一益は上野に入った。
氏政は嫡男・氏直に織田家からの姫を迎えることを条件に、信長に対して関東の一括統治を願い出たが、信長からは明確な回答が無かった。(無視された)
だが、6月2日に本能寺の変が起きて、信長が横死する。
天正壬午の乱
氏政は上野を奪還しようと兵を挙げ、滝川一益と神流川の戦いとなりこれに大勝利する。
一益はわずかな兵と共に本拠地・伊勢に逃亡。氏政は真田昌幸らを取り込んで小諸城を占拠した。
すると徳川家康が甲斐・信濃を狙って出陣し、真田昌幸は徳川に寝返り北条と対立した。(※天正壬午の乱 :てんしょうじんごのらん)
前戦は氏直・氏照・氏邦に任せて、氏政は小田原城から補給と募兵に尽力した。
氏直は甲斐若神子にて家康と対陣し(若神子の戦い)、甲斐国では氏忠・氏勝が徳川勢の鳥居元忠・水野勝成らと戦うも敗北してしまう。
状況が悪くなった北条氏は、氏直が徳川家康の娘・督姫を正室に迎えることで徳川と和睦した。
これにより信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領ということで合意したが、真田昌幸が上野・沼田城を北条に明け渡すことを拒んで、今度は徳川から上杉に寝返ってしまう。
そして上田城で真田VS徳川、沼田城で真田VS北条となるも、いずれも真田が勝ってしまう。(※沼田問題)
この沼田問題は、北条家の行く末に大きく関係することになる。
豊臣秀吉と対立
明智光秀を山崎の合戦で討ち取った羽柴秀吉(豊臣秀吉)は勢力を拡大。
上野を巡って氏政と争っていた上杉景勝は秀吉と同盟を結び、秀吉は柴田勝家を滅ぼしてさらに覇権を推し進めていった。
氏政・氏直親子はこの頃、240万石という北条家始まって以来の最大領土を有していたが、秀吉から従属か徹底抗戦かを迫られることになってしまう。
天正16年(1588年)4月、秀吉は氏政・氏直親子に聚楽第行幸の列席を求めたが、「上洛すること=秀吉に臣従すること」となるため氏政はこれを拒否した。
北条家内の意見としては、氏政・氏照・氏邦は上洛を拒否、氏直と氏規は上洛合意と、意見が割れた。
そして名代として氏政の弟・氏規が8月に上洛したことで、一時的に豊臣と北条間の関係は安定した。
天正17年(1589年)2月、北条家の板部岡江雪斎が上洛して、秀吉に真田との沼田問題の解決を要請する。
秀吉は「沼田領の3分の2が北条、真田には3分の1を与える」という裁定を下した。氏政も上洛の約束をするが、その後、氏政は延期を申し出たために再度、豊臣と北条間の関係が悪化することとなった。
小田原征伐のきっかけとなった 名胡桃城事件
同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸の支城である名胡桃城(なぐるみじょう)城主・鈴木重則の家臣を買収して誘い出し、城を乗っ取ってしまうという事件が起こった(※名胡桃城事件)
名胡桃城を奪われた真田昌幸はすぐに秀吉に訴え出た。これを受けて秀吉は「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免(罪を許さない)しない」とした。さらに秀吉は氏政の上洛・出仕の拒否を従属拒否であるとみなし、名胡桃城奪取は惣無事令に違反したとして、同年12月23日に諸大名に対して北条追討の陣触れを発した。
ただ、氏政は自らの上洛時期が当初の12月から翌春か夏にずれたものの上洛には積極的であり、氏直も「名胡桃城は真田から引き渡されて北条側となった城で奪う必要もなく、全く知らぬことである」と、北条が奪取した訳ではないと釈明している。
もし、氏政が上洛して秀吉に臣従した場合、徳川家康や上杉景勝よりも風下に置かれることになり、それに氏政が屈辱感を感じていたのではないかという見解もある。
北条としては同盟を結んでいる徳川よりも自分たちが上だと認識していたこと、北条に対して敵対心のある上杉・佐竹らが早くから秀吉と近しいこともあり、秀吉も北条には冷淡で非協力的であったとも、北条家を潰そうとしていたという説もある。
集団リンチ状態の 小田原征伐
秀吉の陣触れの前の12月17日に、氏政・氏直親子は北条領国内の家臣や国衆に対して小田原への参陣を命じ、迎撃の態勢を整える。
氏政・氏直親子は、上杉謙信や武田信玄の攻撃をも跳ね返した難攻不落の小田原城に籠城。
天正18年(1590年)3月より各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。
最強の城 小田原城と圧倒的戦力差
当初は秀吉の大軍勢を討つ気マンマンであった北条一族だったが、その圧倒的な兵力差に驚くこととなる。
秀吉の主力部隊は徳川家康・織田信雄・蒲生氏郷・黒田官兵衛・豊臣秀次・宇喜多秀家・細川忠興・小早川隆景・吉川広家・石田三成・宮部継潤・堀秀政・池田輝政・浅野長政・長束正家・立花宗茂・大谷吉継・石川数正・増田長盛・高山右近・筒井定次・蜂須賀家政・大友義統・加藤清正・福島正則ら約17万。
水軍部隊は長曾我部元親・加藤嘉明・九鬼嘉隆・脇坂安治ら約1万。
関東勢は佐竹義宣・佐竹義重・宇都宮国綱・里見義康ら約1万8,000。
北方部隊は前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの約3万5,000で、総勢約22万を超える大軍勢であった。
まさに戦国オールスター軍団である。レアルの銀河系軍団どころの騒ぎではない。
後に秀吉が朝鮮出兵した文禄・慶長の役以上の戦力である。逆に言えば北条早雲から受け継がれてきた後北条一族と小田原城は、一国に匹敵するほどの驚異だったということになる。
対する北条方は約5万6,000であった。
日本史上に残る戦国最強の要塞小田原城であったが、日本中から集団リンチをされるも同然の状態となった。まさにフルボッコである。
3月29日、秀吉陣営は小田原城の西の守りである山中城に侵攻して落城、鷹之巣城・足柄城も落城、秀吉の本隊は4月1日に小田原に到着する。
韮山城を守る北条氏親は4か月以上も籠城を続けたが家康の説得に応じて降伏、小田原沖の下田城も降伏して北条水軍の拠点が落とされてしまう。
玉縄城も降伏、秀吉の北方部隊も北条方の城を攻め落とし、北方面(北条方)の小金城・臼井城・本佐倉城・川越城・岩付城・鉢形城・八王子城・韮山城・忍城(最後まで抵抗して小田原城降伏後に開城)と次々落城・降伏していく。
5月9日には、同盟を結んでいた伊達政宗まで秀吉のもとに参陣してしまう。
さらに秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山(石垣山)に「一夜城(石垣城)」を建ててしまい、北条家内では動揺が広がる。
小田原城内では北条一族と重臣が、徹底抗戦か降伏するかで約1か月間に渡って議論が紛糾する。
4月から約3か月に渡って小田原城に籠城した氏政・氏直親子のもとに、秀吉は黒田官兵衛と滝川雄利を使者として送り「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛させる」という条件を受け入れさせ、氏政・氏直親子はついに降伏を了承。
7月5日、氏直は滝川雄利の陣へ赴いたが、当初の条件とは違う「自分の命と引き換えに全ての将兵の助命」を願い出た。
しかし秀吉は、主戦派であった氏政・氏照兄弟と宿老の松田憲秀・大道寺政繁の4人に切腹を命じた。そして家康が娘婿である氏直の助命を願い出たため、氏直は高野山へ追放となった。
7月11日に氏政・氏照は、弟である氏規の介錯で切腹、享年53歳であった。
その後の北条家
これで戦国大名としての北条氏は滅亡となり、7月13日に秀吉は小田原城に入った。そしてこの日に家康の関東転封が発表され、家康は北条氏の旧領をほぼそのままあてがわれた。
高野山に追放された氏直には生活費として扶持が与えられ、翌天正19年(1591年)8月には秀吉から1万石が与えられているが、同年11月に病死している。
北条家の系統は氏政の弟・氏規(うじのり)が継承。
氏直の領地1万石の一部も継承されて、江戸時代には氏規の子・氏盛が河内狭山藩主となって明治維新まで継続した。
おわりに
北条氏政は、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直という5代続いた北条家当主の中では、「最後まで豊臣秀吉に臣従せず北条家を滅亡させた愚かな当主」として一般的に評価が低い。
偉大な父・北条氏康は「相模の獅子」と称されたが、北条氏政は北条家最大の領土を有し、父と共に「上杉謙信」「武田信玄」の猛攻を退け、兄弟仲も良く、良き臣下に支えられ合戦でも武功を挙げ、急速に台頭してきた織田信長に恭順するなど時流を読む力もあり、決して無能な武将ではなかった。
どうして豊臣秀吉に臣従しなかったのか?その本当の理由は現在でも謎である。
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