はじめに
100年以上も続いた戦国時代。徳川家康はその最終的な覇者となった。
家康は、子孫が260余年に渡って日本を統治する江戸幕府を築き上げた。
しかし、その基礎となる仕組みは家康の代だけでは完成せず、次の代に引き継がれたものも多くある。
徳川政権の命運を握るのは、実は二代将軍・徳川秀忠だった。
家康が後継者に選んだのは三男の秀忠で、彼は家康の期待通りに働いたのである。
今回は、家康が後継者となる秀忠をどのように育て上げたのか?その子育て術について掘り下げていきたい。
春日局と三代将軍
慶長16年(1611年)駿府城、将軍職を秀忠に譲った家康は、駿府城で大御所として辣腕を振るっていた。
そんな家康のもとに、一人の女性が訪ねてきた。
その女性は斎藤福(後の春日局)である。後に三代将軍となる家光の幼少期の乳母で、福を乳母に決めたのは家康であった。
福は家康に「秀忠とその妻・お江が、三代将軍を次男の忠長にしようとしている」と訴え、家康はそれを聞いて驚いた。
もしそうなれば最悪の事態として徳川家は分裂してしまい、内乱や内戦などの骨肉の争いが起きて幕府は崩壊してしまうかもしれない。
家康はすぐに江戸城へ向かい、秀忠とお江に「長幼の序」を明確にし、厳重な注意をした。
それでもまだ心配だった家康は、翌年にはお江に宛てて手紙を書いたのである。
その手紙の中身は、家康自らの子育てにおける経験を基にした17条の教訓「神君御文17条」であった。
若木のうちに添え木をし、悪い枝を切り取れ
実は家康は、子育てに関して暗い過去がある。
これは徳川家の黒歴史と言われる長男・松平信康と正室・筑山殿の死である。
長男・信康は武勇に優れた若者へと育ち、戦場でも数々の武功を挙げていた。
しかし信康は幼い頃から辛い人質生活をしていたことから、家康は信康をとても自由に育ててしまったのである。
その為、信康はかなりわがままな人物に育ってしまった。
家康は信康のことを「親を尊敬することは思いよらず、何度言っても聞き入れず、かえって親を恨むようになった」と言っている。
元亀3年(1572年)家康は浜松城を居城にし、わずか12歳の信康を三河・岡崎城主として自由にさせてしまった。
当然、若い領主を利用しようとする様々な誘惑や思惑があったはずである。
武力に自信があった信康は、やがて父・家康を追い出し、親に代わって政権を作ろうと目論んだ。
また、信康の母・築山殿は今川家の血を引く女性であった。
築山殿は織田信長を仇と思っており、その仇と家康が同盟を結んだことで良からぬ考えを持ったという説もある。(※実際には二人の死の真偽のほどは定かではない)
家康は、自身が子ども時代に人質として苦労した経験から信康を自由にさせたが、子育てに失敗したとも言えよう。
このままでは徳川家は分裂し、一族間で争いが起きてしまう。
結果的に家康は、正室・築山殿を殺害し、長男・信康に切腹を命じる以外に選択肢がない状況となってしまった。
くしくも信康が切腹した天正7年(1579年)三男(※四男とも)・秀忠が誕生した。
家康は同じ過ちは二度と繰り返さぬよう、秀忠をしっかりとした後継者に育てようと心に誓ったのである。
そこで「若木のように育てよ」という知恵が生まれた。
植木の手入れをする時は長くなった枝があれば切り落とし、弱くて曲がってしまうようであれば添え木をして、まっすぐ育つようにする。
人間もそれと同様だと、家康は考えたのである。
秀忠の教育係
とは言え、家康が常に手取り足取り教えるのは不可能である。そこで秀忠に信頼できる教育係をつけようと考えた。
子どもがまだ幼いうちに接する教育係の人選は、とても重要である。
家康のお目にかなったのは、大姥局(おおうばのつぼね)という気の強い乳母だった。
今川家の家臣・岡部貞綱の娘で、かつて家康が今川家の人質だった頃に世話役をしてくれた女性である。
家康が認めただけあって、大姥局は只者ではなかった。
こんなエピソードが残されている。
大姥局は食事の世話をするのが好きで、目下の者たちに対しても自らご飯をよそうことが多かったのだが、ある日それを家康の側近・本多正信が見て、彼女を冷やかしたという。
すると大姥局は
「私は三河の頃の苦しかった生活を忘れたことはない。食べ物に困らない今の暮らしの有難さが分かるからこそお給仕をする。正信様は、かつては鷹匠だったことを忘れて思い上がってしまわれたのか?」
言い返された本多正信は、ぐうの音も出なかったという。
大姥局は「身分が高くなっても驕ることなく謙虚であれ」という考えを大切にしており、生母を幼くして亡くした秀忠を母親代わりとして養育したのであった。
次の教育係
秀忠が15歳になると教育係が交代し、家康の側近の一人である大久保忠隣(おおくぼただちか)が担当になった。
忠隣は忠誠心の塊のような男で「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」と家康の三大危機に際し、決して家康の側を離れることのなかった人物である。
忠隣の指導により秀忠は父を尊敬し、信康のようにむやみやたらに家康に逆らうことはなかった。
家康はこのように優秀な教育係の力を借りて、秀忠を「若木のように管理して育てる」ことに成功したのである。
悪い兆候が出てきたらすぐに取り除き、力不足を感じたらすぐに補うという丁寧な子育て術で、秀忠は「親の言うことをよく聞いて間違いを犯さない子」へと育っていった。
箱入り息子
秀忠はいわゆる「箱入り息子」として素直で真面目な若者に育ったが、これが皮肉にも秀忠の評価を下げてしまう。
「凡庸で覇気の無い二代目」というイメージが定着してしまったのである。
世は戦国時代であり、信康のように血気盛んで常識外れな方が武将としては高く評価されたのかもしれない。
そこで家康は、秀忠を関ヶ原に向かう徳川本隊3万8.000の軍勢の総大将に抜擢し、戦に慣れた歴戦の武将たちをつけた。
秀忠はそれまでほとんど戦場経験は無く、言わばこれが初陣だったが、家康は真田の上田城を攻め落とした後に中山道から関ヶ原に来るように命じた。
だが、上田城を守るのはかつての武田二十四将の一人で、以前徳川軍を圧倒した戦上手な真田昌幸とその息子・信繁(幸村)親子だった。
秀忠軍は大苦戦し、上田城で多くの兵を失い、かなりの足止めを喰らってしまった。
そして関ヶ原に到着したのは、なんと本戦が行われた5日後だった。
父親の一世一代の大勝負、天下分け目の「関ヶ原の戦い」に、秀忠は徳川本隊を大遅参させるという大失態を起こしてしまったのである。
周囲からは「やっぱりお坊ちゃん、箱入り息子は駄目だ」と酷評され、秀忠の箔付けプランは完全に裏目に出てしまう形となった。
後継者争い
こんな大失態を起こしてしまった秀忠だが、最後にはやはり後継者だということになる。
実はこの時、家康の後継者候補は秀忠の他に二人いた。
1人目は、結城家の養子になっていた秀忠の兄で次男の結城秀康である。
秀康は優れた武勇で多くの戦場で手柄を挙げていた武将であったが、実母の身分が低いために結城家に養子に出されていた。
(※一説には双子で、当時双子は不吉とされていたために冷遇されて養子に出されたとされている)
そしてもう一人が、秀忠の弟で四男の松平忠吉である。
忠吉も優れた武勇の持ち主で、関ヶ原の戦いでは一番槍をつけている。
この状況で関ヶ原の戦いに大遅参した秀忠をゴリ押ししても、将来家臣や兄弟の中でしこりを残すことになると考えた家康は、腹心たちを集めて会議を開き「誰が後継者にふさわしいと思うか?」と尋ねた。
危惧した通り、その会議では意見が割れた。そして戦で功績がある二人に対して、大遅参した秀忠を推す者は少なかった。
しかし、それでも秀忠を強く推す家臣がいたのである。
それは若い頃からの教育係として、最も近い所から秀忠を見て来た大久保忠隣であった。
秀忠の聞く力
忠隣は「自分が教育係だったから言うのではない」と強く前置きをした後に、「秀忠様は謙虚な性格で親孝行の気持ちが強く、文徳と知勇を兼ね備え、人を説得する能力に長けている」と訴えた。
さらに「知性溢れる人物に育ったのは、家康様の子育ての知恵によるものだ」「秀忠様はどんな相手でも話をちゃんと聞く」と続けた。
確かに秀忠は、他の二人よりも相手の話を聞く力を持っていた。
「もはや戦国の世は終わり、これからは文治政治の時代へと変わっていく。そうなると徳川家のトップにふさわしいのは秀忠様かもしれない」
そう考えた腹心たちは納得し、秀忠が後継者になることに賛成したのである。
心配性な家康
慶長10年(1605年)、家康は二代将軍に就任した秀忠のために「御伽衆(おとぎしゅう)」という制度を設けた。
これは簡単に言えば将軍直属の御意見番のような役職で、メンバーには関ヶ原で家康と戦った大名なども含め、多様な経歴の者たちが集められた。
家康は秀忠が将軍になってからも「人の話を聞くことを忘れないように」と、制度まで設けたのである。
しかし、さすがの秀忠も常に懐が深いとはいかなかったようで、こんな逸話がある。
ある時、秀忠のもとに太田某(なにがし)という者が仕官して来た。
秀忠は500石を与えようとしたが、その額を見た太田某は怒り出し、500石と書かれた紙を丸めて秀忠に投げ返し、その場から立ち去ってしまった。
秀忠は思わずカッとなって「死罪にする!」と言ったが、お付きの者がなだめ「まずは大御所様にご報告を」と家康にお伺いを立てた。
すると家康は「確かに太田某の行いは良くなかった。だが太田ほどの人物に500石はないだろう。それを命がけで諫言してくれたのだから有難いと思わなければ」と諭した。
家康の教えに秀忠は納得し、結局は3.000石で召し抱えることにしたという。
おわりに
徳川家康の子育て術を記載した「神君御文17条」は、大名や旗本を中心に子育ての指針として多くの写本が作られたという。
幕末には寺子屋でも使われており、庶民の間でも広く親しまれるようになった。家康の「若木のように育てよ」という考え方は広まっていったのだ。
家康の子育ての知己は、人々の子育ての指針となっていったのである。
前半のしかし、信康は家康の打ち間違いでは?
信康も幼少時代は人質でしたので、打ち間違いではないですね。
ご指摘ありがとうございます。
そうだったんだ!ありがとうございます。
打ち間違えることもありますので、ご指摘いただけることは大変ありがたいです。
今後ともよろしくお願いいたします☺️